2024年06月15日

田代可休




天正15年(1587年)の生まれとされます
寺沢志摩守の大井井堰構築の際に「川に中島を造り水流を二分して一方に導水口を設けることで大水の害を避けられる」と助言しました
可休の献策により大黒堰は完成しますが、志摩守は「大名に指図せし」と憤慨し、可休を捕えます
  


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2018年03月03日

唐津出身の建築家・辰野金吾




東京駅は、唐津出身の建築家・辰野金吾が設計しました

干支は、八つ埋め込んであります

レンガは、ドイツ積み(小口積み)です  


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2010年01月11日

核割りの梅







明応6年(1497年)、少弐 政資は、大内氏勢に追い詰められてここ、専称寺で自刃します。
この時、口にしていた梅の実を噛み割り、後に萌え出して花を咲かせその実が割れたので「核割りの梅」と呼ばれるようになりました。  


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2010年01月10日

少弐政資・資元の墓









少弐 政資は、室町時代、戦国時代の武将で鎮西の名門・少弐氏の当主です。

政資は、大内氏に奪われていた筑前、豊前を回復し、少弐氏を一時的に中興します。
応仁の乱の終了後、大内政弘が再び北九州への侵攻を開始すると劣勢となり、政弘の子の大内義興の代には政資の追討令を幕府より得た大内氏の全面的攻撃にさらされ、筑前を放棄し肥前に退避しました。

さらに執拗な追撃を受け、多久氏の居城である梶峰城に拠り、多久宗時の離反によりそこからも追放され、専称寺において自刃しました。
ここ、専称寺には少弐政資・資元の墓があります。

  


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2010年01月09日

専称寺









専称寺の開山は、大同2年(807年)、行基菩薩によると伝えられます。
戦国時代の大名少弐政資にまつわる歴史が残っています。  


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2008年11月01日

少弐冬尚の墓







神埼市城原の真正寺に建つ、少弐氏第17代最後の当主・少弐冬尚の墓です。
少弐冬尚は、永禄2年(1559)龍造寺隆信の攻めにより、勢福寺城を包囲されると自刃し、鎮西の名門少弐氏は滅亡しました。
勢福寺城の山里を下ったここ、真正寺にひっそりと祀ってあります。


  


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2008年09月21日

古賀穀堂の墓





古賀穀堂は、安永7年(1778)寛政の三博士の一人である古賀精里の長男として生まれました。幼少の頃より学問を父に学び、後年、弘道館の教授となります。
さらに文政2年(1819)、鍋島直正の傳役(教育係)となり、13年間に渡り指導役を務めました。
天保7年(1836)、59歳で没し、墓はここ金立町大門にあります。

  


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2008年05月24日

武富廉斎の琵琶



武富廉斎は、諫早・慶巌寺の僧より筑紫琴を学び、京都の公家より琵琶を伝授された。

廉斎が京に登った時に、その琵琶弾奏が宮中に聞き及び、禁裏の拝観を許された。後水尾天皇がその琵琶を御覧に供され、さらには「孝鳥絃」の銘を賜る栄誉を得たのである。
  


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2008年05月18日

黒田チカの墓・大運寺





昭和24年、お茶の水女子大学が開設されると黒田チカは、同大学理学部教授となる。

その後昭和35年(1960年)、日本婦人科学者の会(現在は、日本女性科学者の会)名誉顧問、名誉会長となる。

昭和43年、永眠(84歳)する。墓は、佐賀市伊勢町の大運寺にある。
  


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2008年05月18日

黒田チカ





黒田チカは、明治17年(1884年)佐賀市通小路に生まれる。生家は、旧福田家東隣付近であった。

東北帝国大学にはじめて女子学生として入学した一人で、ベニ花色素カーサミンほか、植物成分の構造研究を行う。

幼少の頃、勧興小学校に入学し、その後、佐賀女子高等師範学校理科に進学する。そして、大正2年、当時の女子としては初めて帝国大学である東北帝国大学理科大学化学科に入学する。卒論は、真島利行教授の指導で紫根(しこん)の色素の構造を研究、シコニンと命名する。

昭和4年(1929年)、紅花の色素成分カーサミンの構造を決定し、東北帝国大学から理学博士の学位を受ける。  


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2008年04月19日

◆百武 兼行



百武 兼行は、明治前期の洋画家、外交官。天保13年生明治17年没。日本で最初に洋画・裸婦像を描いた人物・フランスで初めて洋画を学んだ日本人といわれる。

明治4年(1871年)、岩倉欧米視察団として三度に渡り欧州に向かい、期間中に洋画を学ぶ。本来は画家ではなく外務書記官であり、また帰国後には農商務省へ出仕した政府役人である。

龍造寺四天王の百武志摩守の直系の子孫にあたる。  


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2008年03月08日

善左衛門橋



護国神社の北端、多布施川に架かる長さ8メートルの石橋。

この橋は、江戸時代に洪水の度毎に流されていたものを、宇野善左衛門が私財を持って建設したものである。

明和元年(1764年)7月10日に竣工し、渡り初めの費用も一切、善左衛門が出したと言われる。
橋の土台に直径40センチの松の丸太を井の字に組み、その真中に石柱の橋脚を立てた頑強な造りである。
  
タグ :長崎街道


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2008年03月08日

宇野善左衛門



宇野善左衛門は、鹿島藩士で建築・土木の手腕があり、佐賀本藩に招かれた。

嘉瀬橋の掛け替えなどしてその功績が認められ、十五人扶持を与えられた。

多布施川に架かる石橋を自費で掛け替え、地元の人々はその橋の名を「善左衛門橋」と名付けた。
寛政13年(1801年)、86歳で没し、墓は多布施の西峰院にある  


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2008年03月01日

宇都宮 太郎



文久元年(1861年)~大正11年(1922年)、佐賀市多布施出身・陸軍大将。

イギリス公使館付武官、第7師団長、朝鮮軍司令官を歴任した。

階級は陸軍大将で桂太郎、仙波太郎と共に「陸軍の三太郎」と呼ばれる。
  


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2008年03月01日

西久保家の人々



                      写真は、「西久保 弘道」

<西久保 弘道>
文久3年(1863年)~昭和5年(1930年)は、警視総監・北海道庁長官・福島県知事等を歴任する。
佐賀鍋島町八戸に生まれる。明治45年から福島県知事を拝命し、大正3年4月21日には北海道長官に就任する。大正4年8月12日に警視総監に移る。西久保豊一郎陸軍少佐は弟。

<西久保 豊一郎>
明治2年(1870年)~明治38年(1905年)は、日本の陸軍軍人。歩兵第50連隊第1大隊長、後備歩兵第29連隊大隊長等を務め、日露戦争で勇戦し、樺太攻略戦に於いて戦死を遂げる。

<西久保 豊成>
明治33年(1900年)~昭和2年(1927年)は、佐賀市立勧興小学校、佐賀県立佐賀中学校をそれぞれ首席となり、熊本陸軍幼年学校に進む。ここに於いても首席の成績を修め恩賜の銀時計を授かる。陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校に進み、大正10年7月27日に卒業する。同年10月26日に陸陸軍歩兵少尉となり、内務省に務める。  


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2008年03月01日

久米 桂一郎



慶応2年(1866年)~昭和9年(1934年)、佐賀市八幡小路出身。

父は歴史学者の久米邦武である。絵の修業のためフランスに渡り、黒田清輝とともにラファエル・コランに学んだ。

帰国後の1894年に黒田とともに絵画指導のため天真道場を開いた。

1896年に黒田、岩村透らと美術家の団体・白馬会を結成し、東京美術学校の西洋画科でも後進の指導に当たった。
  


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2008年02月29日

久米 邦武



天保10年(1839年)~昭和6年(1931年)。明治から大正期の歴史学者で長男は、洋画家の久米桂一郎。

佐賀藩校・弘道館で学び、1862年に江戸に出て昌平坂学問所で学んだ後、明治政府に出仕する。

明治4年(1871年)、岩倉使節団の一員として欧米を視察し、帰国後に、『米欧回覧実記』を編集する。

明治21年(1888年)、帝国大学教授兼臨時編年史編纂委員に就任、重野安繹らとともに修史事業に関与する。
  


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2008年02月22日

西肥日報



明治19年、当時の佐賀新聞に対抗するべく武富時敏が「肥筑日報」を創刊した。その後、「西肥日報」へと変遷し武富時敏自身が主筆として鋭い筆を奮った。

武富時敏氏談として、国の剰余金について国防費や減税について詳しい論説を述べている。

ちなみにこの現存する「西肥日報」は、勧興公民館館長宅から偶然に見つかったものである。
  


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2008年02月21日

石井樋・番屋





番家と呼ばれる嘉瀬川の見張り小屋です。

梅雨時の水量が多い時期には、寝ずの番をする事もありました  


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2008年02月21日

②大宝聖林碑



武富廉斎が建立した大財聖堂内にあった「大宝聖林碑」は、六尺余りの自然石で霊亀の上に立ち長文の自選碑文が刻んであり、現在は多久市の西渓公園に保存してある。

台座の亀に似た霊獣は、「贔屓(ひいき)」という龍の第一子である。
  


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2008年02月21日

①始祖・明人十三官





永禄年間(1560年頃)に、筑後・柳川藩に小柳瀬兵衛という巨商がいて毎年、南京に行き貿易をしていた。ある時、帰国のため出帆しようとした折り、5、6歳の童子が乳母と家臣に囲まれ港の近くをさまよっていた。その家臣が瀬兵衛に近寄り「この児を賊が襲おうとしているのでどこの国でもいいから連れて行って助けてくれ」と懇願した。

その児は両耳に金環を付け、親の形見の官服を持っていた。瀬兵衛はその危機を見捨てることはできず、その児を抱き上げ船に乗せ、無事日本に帰り着くことができた。
このようにして連れて来られた児は、瀬兵衛の元で成人し、その後、筑後の国から佐賀藩に移り住んだ。この人物が白山武富家「始祖・明人十三官」である。
  


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2008年02月18日

石井樋・象の鼻



「象の鼻」と呼ばれる「石井樋」の取水口のへさきです。

土砂が多い嘉瀬川の水をうまく回遊させ、川の流れに合わせて取水できるように工夫されています。
  


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2008年02月10日

石井樋





佐賀藩士・成富兵庫重安が構築した「石井樋」です。

嘉瀬川から自然の流れを利用して、多布施川へと取水します。そして、その水は佐賀城下へと流れ込み人々の生活を今でも支えています。
  


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2008年02月08日

青木 繁





明治の洋画壇に「彗星のごとく現れた画家」が青木繁です。

明治15年、久留米に生まれ22歳で東京美術学校を卒業しました。そして白馬会展に「海の幸」を出品して一躍名声を上げます。

明治40年、25歳の時に久留米に帰省しその後、佐賀や小城など九州各地を放浪しました。
佐賀では小学校時代の恩師を訪ねたり、「西肥日報」の西英太郎の援助を受け、画展を開いたりします。

その時に宿泊したのが、「旅館あけぼの」さんです。青木は、この旅館に泊り込み佐賀市内や小城などを訪ね歩き、数点の絵画を各地に残しています。
  


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2008年02月07日

成富兵庫茂安





成富兵庫茂安の墓は、江藤新平と同じく佐賀市・本行寺にあります。
  


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2008年02月06日

山口亮一の生家







佐賀市・精町にある山口亮一の生家です。

山口亮一は、明治13年に生まれ、勧興小学校より佐賀中学校へ進み、その後、岡田三郎助らの教えを受け、「白馬会」に出品しました。

大正2年には、久米桂一郎らと共に「佐賀美術協会」を創設しました。  


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2008年02月06日

山口 亮一





山口 亮一

明治13年に生まれ、勧興小学校より佐賀中学校へ進みました。
明治39年、東京美術学校・西洋画科に入学し、岡田三郎助らの教えを受け、「白馬会」に出品します。

その後、帰郷し故郷の風景や花など日本画、洋画を通じみずみずしい作品を多く残しました。
大正2年に、久米桂一郎らと共に「佐賀美術協会」を創設し後進の育成にも力を注いぎました。

故人の絵画が、母校・勧興小学校に2点保存してあります。
  


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2008年02月06日

大 財 聖 堂





大財聖堂は、元禄5年(1692)、城下の大財村(現・六反田付近)に武富廉斎が建立した聖堂です。

その建立は、多久聖廟より先立つこと12年早く、両聖堂ともに設計・監督は、廉斎の手によるものでした。聖堂内には、佐賀藩主・鍋島綱茂自筆の孔子像や蓮池・鍋島直之自筆の顔子像がありました。

郷学の殿堂として幕末まで約170年の長きに渡り、輝かしい聖堂でした。
  


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2008年02月06日

武富 廉斎



武富廉斎は、武富一族の始祖・明人十三官の曾孫にあたり、その名は咸亮と呼び、寛永14年(1637)、白山町に生まれました。幼い頃に漢学を学び、若くして京都に赴き中村愓斎の門に入り、帰国後「鬼丸聖堂」の創始者・実松致斎を育てます。

後に、藩主鍋島綱茂候より儒学者として召し出され、城下に「大財聖堂」を建立し藩内の文教に大いに貢献します。

又、諫早の慶岩寺住僧より筑紫琴を学び、京都の公家よりは琵琶を学ました。その琵琶の由緒が後水尾天皇の上聞に達し、御前にて弾奏の運びとなり譽れ相まって「孝鳥弦」の名を賜ったほどです。

墓は、佐賀市呉服元町の称念寺にあります。  


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2008年02月06日

武富時敏の落款



武富時敏の落款です。彼は、国会議員の中でも稀代の書道家でした。

なお、落款とは、「落成款識《らくせい-かんし》」の略で、書画が完成した時、筆者が署名・捺印することを言うそうです。作品に落款印を押すのは、自己の真実を尽くした責任の証明と作品を引き立たせる役割もあるそうです。
  


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