2011年04月14日
2008年08月23日
日露戦争忠魂碑・鍋島小学校
佐賀市立鍋島小学校の校庭南に、日露戦争忠魂碑が建っています。鍋島村出身で日露戦争において勇戦し、樺太攻略戦にて戦死を遂げた西久保豊一郎少佐の名が刻んであります。
題字は、陸軍中将・金谷範三が揮毫したものです。
2008年06月18日
2008年06月02日
◆高橋
長崎街道の西の入口で本庄江川に大きく架かる橋が、「高橋」です。佐賀藩時代には、東の「構口」と同じく番所がありました。
本庄江の船着場であったので、航行に支障がないように橋桁が高くなっていてその名の通り、「高橋」と呼ばれるようになったと云われています。
2008年05月25日
循誘小学校址
明治17年(1884年)、佐賀市紺屋町にあった「教正小学校」が手狭になった為に、新しく柳町に学校を移転した。(場所は、現・循誘公民館) その時に校名を「循誘小学校」とした。
同じ年には、佐賀県庁と佐賀中学の建物もできている。
2008年05月23日
教正小学校址
明治8年(1875年)、紺屋町に現在の佐賀市立循誘小学校の前身である「教正小学校」が創設された。現・循誘校区紺屋町公民館の近くである。
その時の学校は、先生が3人、児童は男子100人、女子15人であった。当時、旧佐賀市内には、このほかに勧興、日新、啓蒙、訓蒙、博文、成美の小学校があった。
2008年05月22日
2008年03月29日
中島通り
佐賀市・東魚町の「ゆめこい恵比須」を北へ入る狭い通りを「中島通り」と呼びます。
最近、入手した昭和初期(昭和10年頃)の地図にその名前が記載されていました。
その地図になんと「中島通り」が載っています!!
2008年03月28日
2008年03月27日
復興通り
昭和8年にこの付近で大火があり、多くの商店や住宅が消失しました。
その後、人々の努力により復興したので「復興通り」と言うようになりました。
昭和初期までは、この界隈は「夕日町」と呼ばれていました。
上の写真は、昭和30年頃の活気あふれる通りの様子です。
(ところで、こんなにソバが売れていたんですね)
2008年03月27日
貫通道路
昭和10年に、松原神社や県庁前を東西に「貫通」する通りが完成しました。
当時は、こんな広い道を作ってどうるのかという声もありましたが、今では佐賀市内の基幹道路となっています。
上の写真は、開通する前の昭和7年頃の佐嘉神社付近です。
2008年03月26日
2008年03月26日
2008年03月18日
2008年03月18日
西峰院橋
「西峰院西橋」を渡ると次に橋がかかっていてその傍らに、「西峰院橋」という親柱が倒れている。その為、地図を見ると、この橋が「西峰院橋」という表記がある。
本来の「西峰院橋」は、紡績通りに架かる橋であったが道路拡張工事の為、この親柱だけがこの場所に移転されたものである。
現在、紡績通りの「西峰院橋」にはきちんとした表示がない。
2008年03月17日
2008年03月17日
新青木橋
多布施川にかかる橋で、旧青木橋を昭和38年に架け替えたものである。
青木熊吉(元治2年)1864年~(昭和14年)1939年は、佐賀本藩精錬方のガラス製造技師長で後鍋島家から業務と工場を譲り受け「佐賀精錬合資会社」を創設した。橋の南方右岸に「佐賀藩精煉方科学技術研究所跡」の記念碑がある。
今の「新青木橋」の北西に「三界萬霊」のお地蔵さんがある。