2022年02月22日
思案橋遺跡
江戸時代は上今町にあたるこの地は、明治・大正時代頃まで商家が建ち並び、陸路の長崎街道と水路の紺屋川による人や物が行きかう賑やかな場所でした。
このような歴史的背景があるこの場所で、平成31年(2019)2月家屋の解体中に遺構が発見され、発掘調査の結果、江戸時代から明治時代に築かれた石岸護岸、雁木(石段)、側溝、建物に礎石等の存在が明らかになりました。
このような歴史的背景があるこの場所で、平成31年(2019)2月家屋の解体中に遺構が発見され、発掘調査の結果、江戸時代から明治時代に築かれた石岸護岸、雁木(石段)、側溝、建物に礎石等の存在が明らかになりました。
2022年02月20日
2022年02月15日
佐賀宿・構口番所
江戸時代、長崎街道で東から佐賀城下へ入るには、「構口番所」を通る必要がありました。
慶長13年(1608年)、佐賀城下が構築された際に、ここの番所も設けられました。
そのためこの付近は、かつて「慶長町」と呼ばれたこともあります。
これより西へ向かって、さらには佐賀城を北へ迂回するようにくねくねと曲がった長崎街道が通ります。
慶長13年(1608年)、佐賀城下が構築された際に、ここの番所も設けられました。
そのためこの付近は、かつて「慶長町」と呼ばれたこともあります。
これより西へ向かって、さらには佐賀城を北へ迂回するようにくねくねと曲がった長崎街道が通ります。
2012年12月17日
2011年01月06日
2009年01月16日
得仏歩道
以前は、ここに「得仏橋」という名の橋が架かっていました。川向いの久保田町・草木田に寺院が二、三ありこの部落は「得仏」とも呼ばれています。
天平宝字元年(757)、僧・行基が川の氾濫に心を傷め、この土井を構築中に仏像を発見したのが、地名の由来と伝えられています。その地名に因んで「得仏橋」が架かっていましたが、近年、「みどり大橋」が完成し改名された為に地元の要望で「得仏歩道」として名前が残されました。
2009年01月16日
嘉瀬刑場跡
写真上は、周辺が整備される前
写真下は、森林公園が造成された後
ここ、嘉瀬川河畔には佐賀藩の刑場が設けてありました。川筋が大きく弧を画いて流れを東へ変える辺りの堤防沿いに在ったと云われます。
元禄3年(1690)、オランダ商館員ケンペルは、「江戸参府紀行」の中に嘉瀬刑場の近くを通過する際に、刑死者8名の首が晒されていたのを見たと記述しています。
後年、「佐賀の乱」で江藤新平・島義勇らも不平士族の反乱において死罪判決を受け、斬首の上、首は嘉瀬の刑場に晒されました。
2009年01月15日
2009年01月15日
千人塚
長崎街道を更に西へ進み嘉瀬川を渡る頃、傍らにはかつて佐賀藩の刑場がありました。
元禄時代、嘉瀬津・妙福寺19世、日仙上人が刑死者の菩提を弔うため、卒塔婆を建てたと伝えられています。その後、明和3年(1767年)、同寺の日潮上人によって石碑に建て代えら「千人塚」と呼ばれるようになりました。現在は、石碑は妙福寺に移され、地蔵様を祀る祠が森林公園の中にあります。
2009年01月15日
法勝寺・俊寛僧都の墓
俊寛は、平安時代後期の真言宗の僧で俊寛僧都(しゅんかんそうず)などとも呼ばれます。
後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にありましたが、治承元年(1177)、平氏打倒の陰謀に加わって鹿ヶ谷の俊寛の山荘で密議が行われました。しかし、密告により陰謀は発覚し、俊寛は藤原成経・平康頼と共に鬼界ヶ島(薩摩国)へ配流されました。(鹿ケ谷の陰謀)
そして治承3年(1179)、死を決意して食を断ち自害しました。37歳の若さでした。同じ法勝寺の名で俊寛の墓がありましたが、現在は撤去され碑があるのみです。口伝として同様に、俊寛の墓は、西日本から各地に十数ヶ所所在しているとの事です。
2009年01月15日
2009年01月14日
鍋島段通・顕彰碑
嘉瀬扇町・苗運寺の境内には、元禄6年(1693年)に「扇町毛氈」を始めた「古賀清右衛門」の墓と、「鍋島段通」顕彰碑があります。
「鍋島段通」は、当時の佐賀藩三代藩主・鍋島綱茂公が、この緞通の精緻で優美な趣を愛し、藩内での生産を奨励し、扶持米をあたえて御用品としました。さらに、一般への販売を禁じ、佐賀藩から幕府や親藩大名への贈り物として用いられ、以来明治20年頃まで製造されていました。
苗運寺住職によると、昭和60年代頃に本殿を改築した際、床下より大量の段通が出てきたとのお話をお聞きしました。
2009年01月14日
扇町・苗運寺
扇町の苗運寺は、永禄元年(1558年)深町苗運開基の曹洞宗の寺です。境内には、「扇町毛氈」を創作した「古賀清右衛門」の墓と顕彰碑があります。
なお、明治13年から明治22年までの間、苗運寺境内には「栄昇小学校」がありました。
2009年01月14日
2009年01月14日
高橋
長崎街道の西の入口で本庄江川に大きく架かる橋が、「高橋」です。佐賀藩時代には、東の「構口」と同じく番所がありました。
本庄江の船着場であったので、航行に支障がないように橋桁が高くなっていてその名の通り、「高橋」と呼ばれるようになったと云われています。
2009年01月14日
2009年01月13日
八戸の地蔵菩薩
長崎街道・地蔵橋の西北にある地蔵菩薩です。通常、道端にある地蔵に比べかなり大きく、高さは3メートル近くあり、仏像のようにも思えます。
宝暦6年(1756年)、長瀬町の鋳物師であった谷口安左衛門によって鋳造されました。
2009年01月13日
2009年01月13日
2009年01月13日
のこぎり型家並
長崎街道・長瀬町道標を西へ進むと、八戸ののこぎり型家並が続きます。
佐賀城下への敵の進行を妨げるために、街道沿いの民家をわざと斜めにずらして、防衛体制を取った名残りとも云われています。
2009年01月13日
長瀬町道標
佐賀宿・長瀬町の長崎街道沿いに建つ道標です。正面には右方向へ「こくらみち」、左方向へ「ながさきへ」とあります。
さらに、左右両面には「いさはやとかいばへ」と刻まれています。建立年月は明らかではありませんが、その様式から江戸時代中期以降のものと考えられます。
2008年06月18日
2008年05月24日
◆六座町
佐賀藩祖・鍋島直茂は、鍋島の蠣久から商人たちを呼び寄せた独占的な商人の集団”座“を設けた。それを当時は六座と呼び、その名前が町名として今に伝わる。
その六座とは、硝煙座・穀物座・縫工座・木工座・金銀座・鉄砲座の六つを指す。
2008年05月19日
烏犀圓本舗
佐賀市・材木町の「野中烏犀圓」は、寛永3年(1626)創業以来、生薬を販売してきた烏犀圓の本舗である。
寛政8年(1796)に烏犀圓という生薬の製造許可を得て、その際に建てたのが現存する町家と伝わる。店頭の看板には、佐賀藩の「杏葉紋」が刻まれている。
2008年05月19日
思案橋
構口を西へ進むと、有名な「思案橋」を渡る。昭和初頭までは、今宿川は水深2メートル以上あり、多くの船が行きかっていた。そのため、船通りの良いように勾配がある太鼓橋の構造をしている。
欄干は抜木、束柱、手すりの笠木を組み、親柱には、はっきりと「思案橋」の名が刻まれている。かつては、船がこの橋を通り上れば「芦町」、下れば「室園」の遊郭。どちらに行こうか金繰り合わせの思案の船着場が橋名の由来とも云われている。
もしくは近辺は、佐賀城下の東に位置する商人街で「蔦屋」「松永呉服」「野中烏犀円」での品々を購買する思案をしたとも伝わる。
2008年05月19日
構口番所
江戸時代、長崎街道で東から佐賀城下へ入るには、「構口番所」を通る必要があった。
慶長13年(1608年)、佐賀城下が構築された際に、ここの番所も設けられたと云われる。そのためこの付近は、かつて「慶長町」と呼ばれたこともあった。これより西へ向かって、さらには佐賀城を北へ迂回するようにくねくねと曲がった長崎街道が通る。
2008年02月28日
善左衛門橋
長崎街道を西に進むと護国神社の北端、多布施川に架かる所に長さ8メートル程の石橋があります。
この橋は、江戸時代に洪水の度毎に流されていたものを、宇野善左衛門が私財を持って建設したものです。
明和元年(1764年)7月10日に竣工し、渡り初めの費用も一切、善左衛門が出したと言われます。
橋の土台に直径40センチの松の丸太を井の字に組み、その真中に石柱の橋脚を立てた頑強な造りです。