2009年02月15日
嬉野宿・追分
明元寺を過ぎると、柄崎道(武雄)と塩田道との追分に出ます。これより、北東へ向かい塩田へ向かいます。
「太田南畝・小春紀行」には次のような記述があります。
『天気よし。卯の時過る頃。嬉野を出づ。霜白くして雪の如し。田間をゆくに山遠し。人家あり』
2009年02月15日
上使屋の門
上使屋とは、嬉野宿を通過する大名や長崎奉行、藩吏などが宿泊する蓮池藩営の施設でした。
かつては、長崎街道沿いの豊玉姫神社脇にあってその裏手に浴場もありました。しかし、道幅も狭く建物自体もさほど大きくなく大名や長崎奉行は、瑞光寺を利用していました。
明治4年になり、上使屋は民間に払い下げになり旅館になりました。その際、この門は必要ないという事でここ、明元寺の山門として移設され今に至っています。
2009年02月15日
2009年02月14日
嬉野宿本陣・瑞光寺
長崎街道・嬉野宿には、本来、蓮池藩が運営する上使屋がありましたが、狭く損傷もありました。
そこで藩の援助を受け、明和2年(1765)から文久2年(1862)迄の98年間は、ここ瑞光寺が嬉野宿本陣として使用されました。
現在でも境内には往時のままの藩紋章・杏葉紋を見ることができます。
2009年02月14日
2009年02月14日
嬉野宿・東構口跡
嬉野宿の東西端入口には、それぞれ町木戸が構えられ構口と呼ばれていました。
この構口は、平時は監視人もいなく扉もない木戸でしたが、非常時には見張り番が立ち、検問地点となる重要な役目を持っていました。
2009年02月14日
番号石
江戸時代の嬉野地区は、佐賀本藩と蓮池支藩によって治められていましたが天明元年(1781)に両藩に境界紛争が起こり、4年の歳月を経て本藩の完全勝利のうちに決着しました。
そして、新しい境界線上に20メートル間隔で全長40キロメートルに渡り、番号石が設置されました。
2009年02月13日
豊玉姫神社跡・湯壷
「豊玉姫神社由緒書」によると、豊玉姫神社は現在地よりも南の長崎街道あたりにありました。さらに温泉が出る湯壷と呼ばれる源泉も神社境内にあり宮司が管理していたと云われます。
嬉野宿が蓮池藩の領地となった後に、藩の管轄となり湯壷を藩営の入浴場としたと記されています。
現在は、すぐ近くに「あし湯」があり多くの人々が利用しています。
2009年02月13日
豊玉姫神社・なまず様
豊玉姫神社のお遣いは、「なまず様」です。
嬉野川を支配し、郷の守りについていて国に大難ある時には、六尺の大なまずが現れて神託を告げると語り伝えられています。
また、この「なまず様」は古来より「肌の病」にご利益があると云われています。
2009年02月13日
豊玉姫神社・本殿
豊玉姫神社は、天正年間(1573~92)に兵火の為に消失しました。
その後、元和年間(1615~24)には社殿が再建され、蓮池藩主・鍋島直澄の祈願所となりました。以来、歴代藩主を始め地元住民の崇敬を集めています。
本殿には、鍋島家紋・杏葉が飾られています。
2009年02月12日
2009年02月11日
嬉野宿・西構口跡
藩政時代、嬉野町は平野部を蓮池支藩が、周辺の山間地を佐賀本藩が領有としていて長崎街道が通過する嬉野宿は、蓮池支藩の支配地でした。
当時、宿場の東西端には街道に町木戸を構え、宿場の境界を示しこの場所を構口と呼んでいました。
2009年02月11日
2009年02月11日
2009年02月11日
斉藤茂吉歌碑
轟きの滝公園には、「斉藤茂吉」の歌碑があります。
斉藤茂吉は、山形県出身で大正6年、長崎医医学専門学校(現・長崎大学医学部)に教授として赴任します。そして、大正9年に病気療養の為、唐津・古湯温泉・嬉野温泉に滞在しました。その滞在地、唐津で28首、古湯で38首、嬉野で7首の歌を残しました。
2009年02月11日
2009年02月10日
2009年02月10日
2009年02月10日
平野の丹生神社・その1
平野川沿いの少し開けた道を進むと街道脇に、丹生神社の鳥居が建っています。本殿は、山手に150メートル奥の所です。
塩田川流域には、宮の元・丹生神社を総本社として七つの丹生神社があります。