2009年06月03日

史跡・東山山神 その2







塩田町一帯は、当時は佐賀本藩の統治でした。古くは、久間氏、鍋島茂治(館中さん)、そして佐賀藩・蓮池領と変遷します。

その結果、この志田焼の里に鍋島吉茂公の祠が創建されたものと思われます。「山神」と刻まれた祭神の両扉には、鍋島家紋の杏葉が彫られています。

  


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2009年06月03日

史跡・東山山神 その1









塩田町・志田東山は、佐賀藩領の窯場として18世紀の前半から陶器が盛んに焼かれていました。

皿山の祭神として、寛保2年(1742年)に佐賀四代藩主・鍋島吉茂が祀られています。




  


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2008年06月23日

鍋島茂治・館中さん その2





鍋島茂治は、龍造寺家臣団として島原や肥後に出陣しました。後の豊臣秀吉の朝鮮出兵に際しては、兄・茂正と共に鍋島勢の中軸として奮戦しました。

特に、加藤清正勢が苦境に陥った時は、清正を助けて功績を挙げました。この事が縁で、清正からの懇望により、茂治の長女を清正の家老に嫁入りする約束ができました。ところが帰陣後、鍋島勝茂の代となると他国との縁組は御法度となりましたが、肥後方からは使者が来て約束通り、長女を嫁として連れて行かれました。

おどろいた佐賀藩では、成富茂安が肥後に使わされ長女は帰国させられました。そして、茂治は、佐賀藩の法度を破ったとして切腹しました。嘆いた長女は、その後を追い自害しました。さらには、主の切腹を聞き伝えその家来・18人も追い腹しました。

その33回忌の時に、この供養等が建てられ、久間の人々はかつての城主を末永く祀りました。今でも地域の人々は、親しみを込めて「館中さん」(たっちゅうさん)と呼びます。  
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2008年06月23日

鍋島茂治・館中さん その1





塩田町下久間・永正寺の北側の小高い丘に「館中さん」(たっちゅうさん)と呼ばれる供養等が建っています。

この碑は、佐賀藩祖・鍋島直茂・兄信房の二男・鍋島茂治を祀るものです。慶長18年(1613年)、鍋島茂治は、時の藩主・鍋島勝茂から藩規にふれた罪で切腹を命じられました。

この鍋島茂治は、天正19年(1591年)からおよそ20年間、久間城主として当地を治めていました。久間城は、久間薩摩守盛種により築城された城で、武雄・後藤貴明の家臣団の砦でもあります。



  
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2008年05月09日

長岡天神・天満宮





「長岡天神」は、鍋島直茂が「御館の森」の西南に建立した天満宮である。

この土地は、鍋島氏が山岡国の旧地を偲んで、長岡荘と称したといわれる。  
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2008年05月09日

御館の森



鍋島家発祥の地と呼ばれる「御館の森」は、鍋島氏の祖・長岡経秀が山城の国(現京都府)長岡から肥前に下り、居を構えていた所と伝えられる。

その屋敷地がここにあったかどうかは明確に記された文献はないが、経秀の子・経直の時代に本庄に移り住むまでは鍋島の地に住んでいたといわれる。

この近くには、南小路、北小路などの字名も残っており、その西南には「長岡天神」も現存する。  
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