2008年04月15日
2008年04月15日
2008年04月15日
◆崑崙山⑱


大財聖堂にあった大寶聖林碑は、贔屓(ひいき)の上に建っています。
この贔屓は、龍生九子の第一子です。(龍の長子です)
古く中国では死者の魂を贔屓の上に乗せると、仙人が住む聖なる崑崙山(こんろんさん)へ連れて行ってくれると信じられていました。
2008年04月14日
◆多久茂文⑰


多久聖廟を創設した公は、本藩・鍋島光茂の三男で多久邑主としてその地にあって民の文教に力を注ぎました。
茂文公は、幼少の頃に「武富廉斎」に儒学を学び、廉斎は多久聖廟の釈菜本なども書き興しています。
2008年04月14日
◆多久聖廟創設⑯


鍋島光茂の三男である多久茂文は、多久邑主として多久聖廟を創設します。
宝永5年(1708年)、山谷を切り開いた地に荘厳な聖廟が完成します。その監督、設計は、多久茂文が幼少の頃に教えを受けた「武富廉斎」が行いました。
「大財聖堂」も基本的には、写真のような中国の儒教式本殿があったと考えられます。
2008年04月14日
2008年04月13日
◆西肥日報⑭

明治19年、当時の佐賀新聞に対抗するべく武富時敏が「肥筑日報」を創刊した。その後、「西肥日報」へと変遷し武富時敏自身が主筆として鋭い筆を奮った。
武富時敏氏談として国の剰余金について国防費や減税について詳しい論説を述べている。
ちなみにこの現存する「西肥日報」は、勧興公民館館長宅から偶然に見つかったものである。
2008年04月13日
◆萬金丹の台座⑬

「萬金丹」の看板は、幕末以降は大興寺(神野三溝)にあったが、現在は佐賀県立博物館に寄贈保存してある。
かつては、その台座もあったが平成18年の火災で焼失してしまった。その大興寺には、三溝武富家の墓がある。
2008年04月13日
◆萬金丹⑫

元禄時代に武富家四代目祐白が「萬金丹」という丸薬販売の薬店を城下の白山町にて開業した。その後、天明3年(1783)に藩外からの売薬の移入が禁止され佐賀藩領全域に販路を広げた。
さらに享保2年(1802)、店を継いだ武富担堂は、大村藩の財政再建を援助し、大村藩内でも販売許可を得ることができた。
2008年04月12日
◆明十三橋⑪

橋の親柱にかすかに「明十三橋」と刻んである。明治13年、架設時の佐賀郡長・武富良橘の命名による。
佐賀白山の豪商、武富家は明人十三官を祖としその一族は、白山町や勢屯(せいだまる)町、大財村に居住した。
「大財聖堂」を建立した武富廉斎は、中国の明時代内乱を避けて室町末期の日本に亡命した十三官の曾孫である。
2008年04月07日
◆武富 時敏⑩


安政2年(1855)、佐賀藩士武富良橘の長男として生まれる。始祖十三官より十世にあたり、明治14年、九州改進党を結成し16年県会議員に当選する。
20年佐賀郡長となり郡の財政を改革、23年国会議員となる。内閣書記官長を経て、大正3年大隈重信内閣の時、大蔵、逓信両大臣を歴任した。
又、佐賀県下の日刊新聞黎明期において「肥筑日報」を発行して縦横の論議を発表したことも有名である。墓は、武富廉斎と同じく呉服元町「称念寺」にある。
2008年04月06日
◆聖堂橋⑨

愛敬島4号水賂の十間堀川への注ぎ口に架かる橋。その名は、大財村にあった「大財聖堂」にちなんでいる。
元禄5年(1692)、儒学者武富廉斎は、私財を投じ邸内に広さ約千四百坪の聖堂を完成させた。
墓は、始め聖堂内の一角にあったが宅地整理の為、呉服元町の称念寺に移された。
2008年04月06日
◆武富い南⑧

武富い南は、始祖十三官から九世にあたり、文化3年(1806)、佐賀白山町に生まれた。
初め中村嘉田に学び、後に江戸で古賀侗庵の門に入り博学多才、和漢古今の多くの書に通じた有名な学者である。
帰国後、藩校「弘道館」の教授となり幾多の諸生を教育し、晩年は、八幡小路に学塾「天燭舎」を興し文教に大いに貢献した。
又、幕末の「楠公義祭同盟」連名帖にその名を見ることができる。墓は、武富廉斎と同じく呉服元町・称念寺にある。
2008年04月05日
◆武富常古・寿珍⑦


武富常古・寿珍(両親)の墓は、佐賀市呉服元町・称念寺に建っており高さ2.5メートル余りの巨大なものである。
その文字は、「やげん彫り」という特殊な工法で彫られており、柔らかな文字の筆感が墓石に表現されている。
2008年04月02日
2008年04月01日
2008年03月31日
大宝聖林碑④

聖堂内にあった「大宝聖林碑」は、六尺余りの自然石で霊亀の上に立ち長文の自選碑文が刻んであり、現在は多久市の西渓公園に保存してある。
台座の亀に似た霊獣は、「贔屓(ひいき)」という龍の第一子である。
2008年03月30日
武富廉斎③

武富廉斎は、「明人十三官」曾孫にあたりその名は咸亮と呼び、寛永14年(1637)、白山町に生まれる。幼い頃に漢学を学び、若くして京都に赴き中村愓斎の門に入り、帰国後「鬼丸聖堂」の創始者・実松致斎を育てた。
後に、藩主鍋島綱茂候より儒学者として召し出され、城下に「大財聖堂」を建立し藩内の文教に大いに貢献した。
又、諫早の慶岩寺住僧より筑紫琴を学び、京都の公家よりは琵琶を学んだ。その琵琶の由緒が後水尾天皇の上聞に達し、御前にて弾奏の運びとなり譽れ相まって「孝鳥弦」の名を賜ったほどである。墓は、佐賀市呉服元町の「称念寺」にある
2008年03月30日
大財聖堂②


元禄5年(1692)、城下の大財村(現・六反田付近)に武富廉斎が建立した聖堂である。
その建立は、多久聖廟より先立つこと12年早く、両聖堂ともに設計・監督は、廉斎の手によるものである。聖堂内には、佐賀藩主・鍋島綱茂自筆の孔子像や蓮池・鍋島直之自筆の顔子像があった。
郷学の殿堂として幕末まで子孫相嗣ぎ170年の長きに渡り輝かしい文教の光を放った。
2008年03月29日
始祖・明人十三官①


永禄年間(1560年頃)に、筑後・柳川藩に小柳瀬兵衛という巨商がいて毎年、南京に行き貿易をしていた。ある時、帰国のため出帆しようとした折り、5、6歳の童子が乳母と家臣に囲まれ港の近くをさまよっていた。その家臣が瀬兵衛に近寄り「この児を賊が襲おうとしているのでどこの国でもいいから連れて行って助けてくれ」と懇願した。
その児は両耳に金環を付け、親の形見の官服を持っていた。瀬兵衛はその危機を見捨てることはできず、その児を抱き上げ船に乗せ、無事日本に帰り着くことができた。
このようにして連れて来られた児は、瀬兵衛の元で成人し、その後、筑後の国から佐賀藩に移り住んだ。この人物が白山武富家「始祖・明人十三官」である。