2011年10月05日
旧三菱合資会社唐津支店・その2



この建物は、唐津出身の建築家・會禰達蔵によるものと云われています。會禰は、イギリス人建築家・コンドルに教えを受け、同じ唐津出身の辰野金吾と並ぶ、明治の建築家として活躍しました。
2011年10月04日
旧三菱合資会社唐津支店・その1


この建物は、明治41年(1908年)に三菱合資株式会社唐津出張所として建築され、大正7年(1918年)に三菱商事株式会社唐津支店となりました。
その後、唐津市民俗資料館として復元工事が行われ公開されましたが、今は休館となっています。
2011年10月03日
2010年11月16日
旧吉原家・蟇股
旧吉原家の主屋の建立は、式台玄関の蟇股(かえるまた)に文政8年(1825年)の墨書が残っています。
蟇股は、読みの通りカエルが足を広げたような形をしていますので、このような名前がついています。社寺建築様式の形態において、柱の頂部をつなぐ頭貫(かしらぬき)と軒下の桁(けた)との間や、梁(はり)上に置かれる部材を指します。
2010年11月11日
2010年11月09日
2010年07月31日
2010年07月30日
福岡市赤煉瓦文化館・その1
近くに福岡市赤煉瓦文化館もあるので、見学に行きました。
この建物は、明治42年(1909年)、日本生命保険の九州支社として辰野金吾が設計しました。
内部は会議室や展示施設として利用されていて、福岡市立歴史資料館や福岡市文学館が入っています。
2010年05月08日
旧佐賀市庁舎跡


明治22年(1889)、市町村制度施行により佐賀市が誕生しました。その後、佐賀郡神野村・西与賀村・嘉瀬村・兵庫村を合併し旧佐賀市の区域へと発展していきます。
庁舎は、旧弘道館跡地や旧勧興小学校跡地を経て昭和4年、この地に建設されました。
その後、昭和50年に移転するまで隣接する県庁や商工会議所と共に行政区の一角を形成します。
2010年05月07日
青藍高等小学校跡

明治25年(1892年)、嘉瀬村・久保田村・鍋島村の三村共同で嘉瀬の地に「」が創設されました。校名の「青藍」は、荀子勧学篇よりの一節「学不可以己 青取之於藍」からの引用です。
礼儀、勤労、規律、公徳を重んじた素晴らしい教育が成され、明治41年には、全国優良小学校として文部大臣表彰を受け、嘉瀬地域の初等教育の礎を築いた学校でした。その後、幾多の教育機構の変遷を経て、今でもその精神は、現・佐賀市立嘉瀬小学校に引き継がれています。
なお校門とその記念碑址が現在、嘉瀬・青藍団地内に残っています。
2010年05月06日
久保泉尋常小学校之跡
蛍橋を東へ行くとしばらくして、「久保泉尋常小学校之跡」の碑が建っています。
記録によると、
明治 8年・1月 川久保字西原御茶屋郷学校跡に小学校教育を開始
明治 8年・3月 上和泉竜田寺を校舎として泉小学校発足
明治25年・4月 学制改革により、川久保尋常小学校・和泉尋常小学校と改称 とあります。
川久保鍋島家・神代藩では、元禄元年(1688年)に全国で先がけて藩校・川久保学舎が創設されています。
2010年03月28日
ノルマントン号海難事故追悼碑・その1
明治19年(1886)10月24日、横浜港から神戸港に向かっていたイギリス国籍汽船・ノルマントン号が、和歌山県勝浦沖で暗礁に乗り上げ遭難しました。この海難事故で日本人25名が犠牲になりました。
しかしイギリス人ドレーク船長以下、乗船していた英国人の多くは助かりました。この事で日本国内ではイギリスを非難する世論が沸き起こりました。
さらには当時、日本政府はイギリスと条約改正の交渉中でもあり、複雑な外交交渉の経緯もあって大きな話題となりました。
その海難事件に関する追悼記念碑が、ここ常福寺にあります。
2010年03月28日
ノルマントン号海難事故追悼碑・その2
このノルマントン号に、佐賀市蓮池町出身の八谷種次郎が乗り合わせていたのでした。
八谷家は、縫製業と製靴業を営む裕福な商家でした。種次郎は、これから先の時代は羽織袴から洋服と靴の時代が来ることを見越して上京し、その技術を習得して佐賀への帰途でこの海難事故に遭遇したのでした。まだ年若く当時25歳でした。
この青年の死を悼み、書聖・中林梧竹が追悼文を興し碑文としました。
「八谷種次郎は肥前の人なり。商工をもって裕国厚民の源となし、東京に至りて視察せり。帰付に及び、英国ノルマントンの輪船のみ明治19年10月24日、紀州洋に行き至り触礁沈没す。船長ドレークのなすところに因る。20余人と同じく難に及ぶ。時に年、29にして子一あり。哀れむべきのみなり。明治21年建。中林梧竹書」
2010年03月27日
2010年03月27日
2010年03月09日
2010年03月08日
神野のお茶屋


十代藩主・鍋島直正の別荘で弘化3年(1846)に造成され、「神野のお茶屋」と呼ばれていました。
時代は下って、大正12年に公園として市民に開放され、佐賀市が管理することになりました。
園の中ほどには、江藤新平の銅像が建っています。
2009年02月03日
2009年02月02日
2008年10月11日
牛島町の二十三夜尊

佐賀市牛島町・構口南の長崎街道沿いに、「二十三夜尊」が祀ってあります。
明治26年、道路拡張で移転が必要になった時に、地元・名士である下村辰右衛門が寄進をされました。下村家は、思案橋近くで酒造業を営む旧家であり、貴族院議員として循誘小学校・柳町校舎の学校敷地を寄付されてもいます。
「二十三夜尊」を祀った町には、火災が起こらない」と話をされたと伝わります。また同氏は、「次郎物語」で有名な下村湖人の養父でもありました。
タグ :長崎街道
2008年03月05日
龍造寺隆信の碑

龍造寺隆信は、享禄2年(1529年)に龍造寺周家(肥前佐嘉水ヶ江城主)の長男として生まれます。
元亀元年(1570年)、大友宗麟が六万の軍勢で肥前侵攻しますが、家臣・鍋島直茂による奇襲策によって撃退します。
その後、肥前・肥後・筑前・筑後・豊前並びに壱岐、対馬を手中におさめ、『五州二島の大守』とまでいわれるようになります。
タグ :龍造寺隆信
2008年03月05日
万部島


佐賀藩代々の藩主が建立した、法華経一万部読誦の記念の石塔群です。
法華経一万部を読誦して、国家安泰と万民安楽を祈願するならわしは、近世に入って各藩で行われていました。
龍造寺家兼公は、水ヶ江城の鬼門に当たるこの地で、領内の僧三千人余を集め法華経一万部の読経をさせ、国家安泰、万民安楽の祈願をさせました。
佐賀藩になってからも、家兼公の故事にちなみ法華経一万部の読経をさせ、石碑を建てました。
タグ :龍造寺
2008年02月29日
2008年02月28日
多布施公儀反射炉跡

嘉永6年(1853年)、徳川幕府は江戸湾防備のために品川に台場を築き、そこに備える大砲の製造を佐賀藩に依頼した。
鍋島直正公は、その要請に応じて多布施川の傍に「公儀石火矢鋳立方」を設け、反射炉を設置して大砲の量産を開始した。
そして、3年の間に24ポンド砲・36ポンド砲を各25門、別に150ポンド砲を3門、を製造して幕府に納入した。
2008年02月22日
佐賀藩兵上野彰義隊砲撃絵図

佐賀藩が、上野戦争で彰義隊を砲撃する時の様子を描いた絵図です。
アームストロング砲が寛永寺に向けて砲撃しています。
左側には、鍋島杏葉紋の旗が見えます。 斜めに紺地が入っているのは佐賀海軍の旗の一種です。
2008年02月22日
アームストロング砲

佐賀藩は、慶応2年(1866年)、当時の最新兵器であるアームストロング砲をほぼ自力で完成させ、藩の洋式軍に配備した。
その他、四斤砲の製造と実用化に成功し、後に品川台場に施された砲台にも利用された。この砲も、佐嘉神社入口横に展示してある。