2012年08月28日
和銅寺・龍造寺隆信の御鬮



和同寺の口伝に、龍造寺隆信の御鬮がありこれも特別に見せて頂きました。
沖田畷の戦いに挑む前に龍造寺隆信は、ここ和同寺にて御鬮を引きます。最初に出たのは「凶」でした。そこで、もう一本引きます。又、「凶」が出ました。不吉に感じ、三本目まで引きました。そして何とそれも「凶」と出ました。
家臣達は出陣を中止するように進言しますが、沖田畷に進み戦死しました。
2012年08月27日
2012年08月21日
和銅寺・龍造寺隆信の墓碑



諫早市高来町の和銅寺にある龍造寺隆信の墓碑です。
天正12年(1584年)、島原の有馬晴信を攻めた沖田畷の戦いで、龍造寺隆信は戦死しました。佐賀龍泰寺の大圭和尚は、沖田畷に駆けつけ、遺体を収容し神代に運び船で湯江に渡ると、ここ和銅寺で荼毘に付しました。
その後明治2年(1869年)、龍造寺四家の一つである諌早氏の第16代当主・諌早一学が龍造寺隆信の墓碑を建立しました。それがこの墓碑です。
2012年08月20日
2012年08月11日
2012年07月23日
2012年07月22日
2012年07月21日
2012年07月20日
2012年07月19日
2012年07月18日
2012年07月17日
2012年07月16日
鹿島城下・旭ヶ岡公園



かつての鹿島城址は、今では旭ヶ岡公園と呼ばれ桜の名所となっています。
文久2年(1862年)に鹿島藩13代藩主・鍋島直彬が松蔭神社の境内の一角に多くの桜を植えて「衆楽園」と名づけ、人々を慰めるために桜の宴を開いたことが始まりと云われています。
2012年07月15日
鹿島城赤門・野外博物館





江戸時代の鹿島市は、佐賀鍋島藩の支藩の一つ、鹿島藩の城下町として発展してきた歴史があります。
江戸時代後期の文化4年(1807)に築城された鹿島城は、佐賀県立鹿島高等学校の敷地部分に本丸があり、ここを中心とした大字高津原城内地区が、鹿島城のほぼ全体区域にあたります。
2012年07月14日
鹿島城下・鹿島城赤門






鹿島城は、佐賀鍋島藩の支藩・鹿島鍋島藩二万五千の居城です。かつて、鹿島の城は北鹿島の常広にありましたが、低地のため数度の水害に悩まされました。
そこで幕府の許可を受けて文化4年(1807年)に現地に移転完成しました。
明治7年の佐賀の乱にて、本丸などは焼却しましたが、赤門と大手門は残存し廻りには石垣も長く残っています。
2012年07月13日
鹿島城下・大手門



鹿島城・大手門は、屋根が切妻造り、本瓦葺きの高麗門形式の門です。かつては黒塗りであったものを、近年、丹塗りに変えられています。
門の中央には鹿島藩主の家紋・杏葉紋があり、両脇には続塀が設けられています。