2024年02月04日
2012年06月16日
伊能 忠敬・その2
伊能 忠敬は、宝暦12年(1762年)18歳の時に下総国香取郡佐原村の伊能家に婿養子になります。
伊能家は、酒、醤油の醸造業などを営んでいて、苦しかった伊能家を再興しました。
そして、寛政6年(1794年)50歳の時に、家督を長男に譲り隠居、翌年江戸に出ました。そこで江戸幕府の天文方・高橋至時に師事し、測量・天文観測などを修めその後、地図測量の旅に出ます。
2012年06月14日
伊能 忠敬・その1
伊能 忠敬は、(延享2年)1745年~文化15年(1818年)は、江戸時代の商人であり測量家でした。
寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、足かけ17年をかけて全国を測量して「大日本沿海輿地全図」を完成させました。
九州では、文化6年(1806年)~文化8年(1811年)にかけて小倉を出発し東九州や長崎街道を測量ました。
小倉・常盤橋にはその偉業である測量200年を記念した碑が建ちます。
2010年08月26日
楷の木
円通寺境内には、「楷の木」があります。、「楷の木」は、別名「孔子の木」「学問の木」と言われています。
儒学の祖、孔子(紀元前552~479)は、多くの子弟に見守られながら世を去り、山東省曲阜の泗水のほとりに埋葬されました。門人たちは3年間の喪に服した後、墓所のまわりに中国全土から集めた美しい木々を植えました。孔子十哲と称された弟子の中で最も師を尊敬してやまなかった子貢(しこう)は、さらに3年、小さな庵にとどまって塚をつくり、楷の木を植えてその地を離れました。この楷の木が世代を超えて受け継がれ、育った大樹は「子貢手植えの楷」として今も孔子の墓所に、強く美しい姿をとどめています。
その後、「楷の木」は科挙の合格祈願木となり、歴代の文人が自宅に「楷の木」を植えたことから「学問の木」とも言われるようになりました。合格祈願木とされたのは、科挙の合格者に楷で作った笏(こつ)を与えて名誉を称えたからだと考えられています。また、その杖は「楷杖」として暴を戒めるために用いたとされます。
2010年08月25日
2010年05月09日
懸魚

神社仏閣の屋根に取り付けた妻飾りの事を、懸魚(げぎょ)と呼びます。
写真は、龍造寺八幡宮のもので、杏葉紋の下の飾りがそうです。
懸魚は、火に弱い木造寺院などを火災から守るため、水に縁のある魚の形をした飾りを屋根に懸けて火伏のまじないとしたのが始まりと云われます。魚の身代わりを屋根に懸けることが「水をかける」という意味にも通じています。これが魚に由来する呼び名の語源です。
これと同じように神のご加護にすがって災禍を避ける例としては、城郭の天守に上げている鯱(しゃち)や鴟尾(しび)が同類のものです。他にも似たものでは、魔除けを祈願する鬼瓦の例などがあります。
2008年08月11日
「平安紋鑑」その3

「平安紋鑑」の中に都市紋の項目があり、その中に「佐賀市」の紋章があります。何と龍造寺家紋の「十二日足」紋です。
明治33年、佐賀市議会にて第33号議案が提出されます。
「12日脚は、龍造寺氏の紋章にて、当市に因縁深きもの。これを本市の黴章と制定せんと欲す」
そして当初、中の文字は「栄」でしたが、石丸勝一市長が「市」の文字を入れる発案をしてこれが可決されました。
タグ :平安紋鑑
2008年08月11日
「平安紋鑑」その2


「平安紋鑑」は、家紋の図柄名鑑ですが、それだけではなく、その紋をどうやったら描けるかも解説してあります。
日本古来の手法で線引きや弧を描いて、複雑な紋章を造っていけるように図解があります。見事です。
タグ :平安紋鑑
2008年08月11日
2008年04月19日
日足紋

龍造寺家紋の「十二日足」ですが、実は意外とその種類も多くあります。
「日足」とは、太陽の光の事であり、太陽信仰からが起こりと言われます。又、日輪は皇室とも繋がりを持つとされ、戦国時代から各地の強大な武将が用いるようになりました。
2008年03月25日
2008年03月09日
2008年03月07日
2008年03月07日
堀井樋


佐賀城の北堀には、裏十間川から水を取り入れる井樋が数箇所あります。
川の流水量にあわせて取水し、別の出水溝から流れ出る仕組みになっています。
この機能により渇水期でも堀の水が枯れることがなく、大雨時期にも水面が溢れることはありません。
タグ :佐賀城
2008年03月07日
正一位稲荷大明神

弘道館記念碑横にある「正一位稲荷大明神」です。正一位とは律令制下、朝廷より諸臣に授けられた位階のことで、官人の地位を表す等級として一位から初位の位階があります。
奈良時代中期以降、この位階が人に対してでなく、神にも授位されるようになりました。これは神階と称して、諸臣に与えられる位階制度に倣うものでしたが、両者に直接的な関係はありません。
稲荷神社についてですが、稲荷神に対して従五位下が授けられ、その後も進階を重ね、天慶5年(942年)に諸神に対しておこなわれた授位で正一位に叙せられました。
タグ :正一位
2008年03月06日
茗荷(みょうが)紋

茗荷紋は、茗荷の花を象った家紋。杏葉紋の形によく似ているので、それを改めて茗荷紋ができたともいわれる。また、名称が「冥加」と同じ発音であるため縁起がよいとされた。
戦国期以後、天台宗の摩多羅神の神紋として用いられている。この紋を初めて家紋として用いたのは、二宮氏といわれる。
茗荷紋と杏葉紋の区別は、茗荷紋にはかならず葉脈があり、頭部に花をつけているのが特長である。そのかわり、杏葉紋に見られる下部の半円放射状をした花蕊が、茗荷紋にはない。ただし、まれに杏葉紋にも葉脈があるものもある
タグ :茗荷
2008年03月06日
杏葉(ぎょうよう)紋

杏葉は、大陸伝来の装飾的な馬具(唐鞍・・・カラクラに使用された金銅製の装飾)を図案化した紋で、杏(あんず)の葉に似ているところからこの名がついたといわれている。古くは、大友宗麟の家紋として広く知られている。
大友氏の勢力により九州・鎮西地方では権威のある紋となり、大友氏から杏葉紋を与えられた一族の立花氏、戸次氏、田原氏などの有力家臣は「同紋衆」と呼ばれて優遇され、また大友宗麟と戦った鍋島直茂は戦勝を記念して杏葉紋に改めた。以後、「杏葉紋」は鍋島家・家紋とされる。
杏葉紋は茗荷(みょうが)紋と非常に似ているが、葉脈の筋や先端に花房がないことである程度見分けることができる。
後に鍋島氏が幕府に提出した公式文書に鍋島家自らが「みょうが」と間違えて書いてしまった逸話も残っているほどなので、佐賀では多くの人が鍋島家・家紋を「抱き茗荷紋」と呼ぶようになった。
タグ :杏葉
2008年03月01日
唐人町の由来


唐人町の起源は、天保13年(1842)7月、御用荒物屋・川崎勘四郎が佐嘉・鍋島藩に提出した、『御用唐人町荒物唐物屋職御由緒書』にみることができる。
それによると、勘四郎の先祖で高麗人、李宋歓(りそうかん)が、唐人町の始祖である。
李宋歓は、高麗は吉州、竹浦の川崎(現、朝鮮民主主義人民共和国、吉州ではないかと思われるが定かではない)に生まれたと記されており、当地ではかなり知られた武人かつ文人であり、相当の地位を得ていたようだ。
2008年02月23日
定紋と替紋

武家は、いくつかの家紋を使用していました。
その中で「定紋」は、「本紋」「正紋」とも称され、主として公式の場合に使用します。
「替紋」は「副紋・裏紋・別紋・控え紋」等と称され非公式の場合に使用する家紋を指します。
例えば大友家で定紋は「杏葉紋」、替紋を「五七の桐」としたようなものです。
2008年02月22日
精煉方

佐賀藩十代藩主・鍋島直正が1852年に設立させた組織が佐賀藩・精煉方です。
当時の日本でも有数の近代技術研究所でした。彼らは佐野常民を中心に西洋の最先端技術に果敢に取り組み、日本初の反射炉やアームストロング砲などを完成させ、これらが維新の原動力となりました。
さらに、文献と実験だけを頼りに蒸気機関車の模型を完成させました。
2008年02月22日
鋳立方(いたてかた)七賢人

藩主直属として、側近の
①本島藤太夫を責任者に、「鋳立方(いたてかた)七賢人」と呼ばれる専任チームが生まれた。
②江戸で伊東玄朴に学んだ蘭学者・杉谷雍助
③漢学にも洋学にも通じた田中六郎
④代々藩の大砲製造を担ってきた鋳物師・谷口弥右衛門
⑤「肥前忠吉」の刀鍛冶(かじ)橋本新左衛門
⑥藩随一の算術家・馬場栄作
⑦経理会計に堪能な田代孫三郎
さまざまな分野から優秀な人材を集めて立ち向かう特命プロジェクト。現代企業が新規事業などで採用している手法の先駆けだった。
2008年02月22日
龍生九子

「佐賀の乱」の鎮魂碑の台座は、霊亀と言われますが、正確には「贔屓(ひいき)」です。
その「贔屓」とは、龍の第一子です。
以下、「(りゅうせいきゅうし)」といい中国の伝説上の生物で、龍が生んだ九匹の子を指します。
1、贔屭(ひいき) 形状は亀に似ている。 重きを負うことを好む。
2、螭吻(ちふん) 形状は獣に似ている。 遠きを望むことを好む。
3、蒲牢(ほろう) 形状は龍に似ている。 吼えることを好む。
4、狴犴(へいかん) 形状は虎に似ている。 力を好む。
5、饕餮(とうてつ) 形状は獣に似ている。 飲食を好む。
6、蚣蝮(こうふく) 形状は魚に似ている。 水を好む。
7、睚眦(がいし) 形状は龍に似ている。 殺すことを好む。
8、狻猊(さんげい) 形状は獅子に似ている。煙や火を好む。
9、椒圖(しょうず) 形状は貝にも蛙にも似ている。 閉じることを好む