2012年06月06日
2008年11月03日
長崎台場・四郎島その4
台場址をさらに進むと、井戸があり底には今でも水があります。周囲は、強固な石垣で囲まれています。
海岸近くには、石切の址も残ります。今回の探訪で、改めて当時の佐賀藩の台場建設の見事さを認識しました。
(※注意・・・現在、四郎島は私有地なので、無許可の立入りは、ご遠慮ください。)
2008年11月03日
長崎台場・四郎島その3
四郎島中央には、トンネル構造の城郭も現存します。このトンネルを抜けると、大砲を設置した台場があります。
トンネルの中は、崩落しかけていて少し危険な場所でもあります。
(※注意・・・このトンネル及び四郎島の海岸は、崩落の危険がありますので立ち入りは、ご遠慮ください)
2008年11月03日
長崎台場・四郎島その2
神ノ島と四郎島は、長崎湾の入口にあって佐賀藩の台場建設以前は海に浮かぶ小島でした。
これを台場とするために、鍋島直正は巨費を投じて、陸続きにしたのでした。
石垣や台場址を見ると、まさに城郭のように要塞を造る技術が生かされています。
2008年11月03日
長崎台場・四郎島その1
佐賀藩は、嘉永4年(1851)長崎警備の為、四郎島に大砲を設置する台場建設に着工します。外国船の侵入を長崎湾口で阻止する計画です。
まず、神ノ島と四郎島の間220メートルを堤防で結ぶ護岸工事に乗り出します。潮流が強く、捨て石が流され苦心の結果、木枠に石を詰めて沈めると流れないことを発見しました。さらに四郎島を切り開いて石垣を築きました。
現地には、今でも石垣や階段、さらには石切場などが残ります。
(※注意・・・現在、四郎島は私有地なので、無許可の立入りは、ご遠慮ください。)
2008年07月02日
2008年07月02日
2008年07月02日
2008年07月02日
蓮池城址 その1
蓮池城は、応永34年(1427年)頃 小田直光によって築かれました。以後、小田氏が代々の居城でしたが、天文22年(1553年)龍造寺隆信によって小田政光は攻め滅ぼされたました。
その後、龍造寺氏の持ち城となった蓮池城には、龍造寺長信・家晴が居城しました。さらに、天正12年(1584年)には鍋島直茂の居城となりました。
2008年06月29日
本告城址 その2

永久三年(1115)、鳥羽天皇が櫛田宮を修造され、「本告道景」と「伴兼直」を勅使別当職として下向させられました。
そして、「本告道景」が本告家の祖になり、「伴兼直」が執行家の祖となったと云われます。本告は「もとおり」と読み、牟田ケ里七百町を本領としました。
写真下は、圃場整備の時に発掘調査された城址の概観です。
2008年06月29日
本告城址 その1
本告城は、神埼町本告牟田地区の自得寺境内一帯が城址です。 クリークによって幾つもの「島」とも云える曲輪から形成されています。
築城年代は、はっきりしませんが、永久年間(1173 -1117)にこの地に下向した、「本告道景」を祖とする本告氏によって築かれました。
2008年06月29日
2008年06月29日
中津隈城址 その1
中津隈城は、みやき町中津隈地区北側にある城山とよばれる小高い丘に築かれていた城です。 現在は、宝満神社の境内となっています。
築城年代は、はっきりしませんが「犬塚家広」によって築かれました。神社境内には、前方後円墳があり、町の史跡となっています。
2008年06月29日
西島城址
西島城は、三根郡代であった横岳氏の居城でした。西乃宮八幡宮の周囲には、掘割が残りますが実際の館址は、少し南に位置していました。
横岳氏は少弐氏の支流で、少弐貞頼の二男頼房が文安元年(1444)、少弐家の名代として肥前国三根郡西島に居城して、横岳を称したことに始まります。
2008年06月29日
太田城址 その2
享禄年間(1528~1532)、「太田資元」が関東から肥前へ下向して在地領主として勢力を拡げました。資元は、太田道灌四代の後裔と云われます。
龍造寺家兼に仕えて戦功をあげた太田氏は、龍造寺滅亡後は鍋島氏に従い、江戸時代を通して太田の地を領し国家老の要職を務めました。今でも太田神社の社殿には、龍造寺家紋の十二日足紋が残ります。
2008年06月29日
太田城址 その1
太田城は、諸富町大堂太田地区にあったとされ、佐賀平野特有の堀割りに囲まれた城域とされます。
現在は、地区の北端にある太田神社の境内を取り囲むように残るクリークが城の面影を今に伝えています。築城年代は、はっきりしませんが、太田氏によって築かれたと云われます。
2008年06月15日
勢福寺城址・その4 「城原衆」
「種福寺」の境内に執行 種兼・「城原衆」を記した碑があります。執行 種兼は、肥前国の武将で初め少弐氏に仕え、享禄3年(1530年)「田手畷の戦い」で活躍しました。その後、勢福寺城主・江上武種に仕えるようになります。
元亀元年(1570年)、「今山の戦い」では、江上武種に属して龍造寺氏と戦っています。それ以降、龍造寺氏の攻勢が強まり、鍋島直茂を総大将とした征討軍が勢福寺城に攻め寄せてきましたが、種兼は旗下の「城原衆」を率いて龍造寺軍の撃退します。
しかしその後、江上武種が龍造寺隆信の猛攻に屈し、隆信の息子・家種を養子に迎えると家種に仕えます。その後、龍造寺軍では新参ながらも、戦功多く彼ら「城原衆」は精強で知られる存在となります。
天正12年(1584年)、「沖田畷の戦い」では家種軍に属して出陣しており、龍造寺隆信が討たれた混乱の中で、種兼以下、嫡男種直、二男種国、三男信直と「城原衆」の多くが討ち死にします。その数、55名と云われています。その後子孫は、佐賀藩では着座として重臣の地位を占めるようになりました。
2008年05月08日
田中城(和仁城)

田中城(和仁城)は、廣瀬文書の暦応3年(1340)の項に出てくる「鰐城」にあたると考えられているが、いつ築城されたかははっきりせず、落城する天正15年(1587)まで250年以上は続いたと思われる和仁一族の居城である。
和仁氏はもともと菊池氏の家臣で、天正年間の始めには大友氏に属して龍造寺氏と戦ったり、後には龍造寺氏や島津氏などに属して、戦国を生きぬいてきた。
天正15年(1587)、肥後の国衆一揆の戦いで豊臣秀吉は佐々成政、鍋島直茂、立花宗茂などの諸将に命じ田中城を攻めさせ、これを迎え討ったのが城主の和仁勘解由親実、弾正親範、人鬼親宗の三兄弟であった。
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2008年05月08日
神尾城
熊本県玉名郡の「神尾城」は、南北朝内乱期(1338年~1392年)、征西将軍懐良親王に奉仕していた名和長宗が親王崩御後、菊池家臣となりこの城に拠ったと言われている。
その後室町時代には、南関の大津山氏の城となった。
天正7年(1579年)肥後を攻めた龍造寺隆信は、和仁城・長坂城を攻略し、ついで大津山資冬の楯籠ったこの神尾城を攻めたが、攻めあぐねて撤退した。
天正15年(1587年)、肥後国衆一揆では反旗を上げたが更なる龍造寺軍の攻撃を受け、城主・大津山家稜は、謀略に誘い出され吉地村浄満院で謀殺され、ついに落城した。
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2008年05月06日
妻山城
創建時期は、明らかでないが南北朝時代には南朝の拠点としてたびたび兵火に見舞われた。その当時は、妻山城と呼ばれていた。
妻山神社の祭神は、抓津姫命(ツマツヒメノミコ)で、ここより南の稲佐神社の祭神が、その兄・五十猛命(イタケルノミコト)である。ちなみに、父は、素盞鳴命(スサノオノミコト)で天皇家の祖神である天照大神(アマテラスオオミカミ)の弟である。
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2008年05月06日
須古城・乱れ橋
須古城址のすぐ近くに、「乱れ橋」という名前の橋がある。里の人によると、龍造寺隆信の須古城攻めにより多くの犠牲者が出たため、この橋を「乱れ橋」と呼ぶと言われている。
ただ、傍らの石碑に「天明六年丙午秋彼岸建立」とある。この天明6年(1786年)には、大洪水との記録がある年でもあり、龍造寺隆信の天正年間より約200年ほど時代が下るため、川の氾濫(乱れ)による犠牲者を追悼した祠が建立されたとも考えられる。
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2008年05月06日
男島(小島)城
須古城の東に、小さい丘があり支城として要になっていた。山の側面には、石垣の址も見受けられ、頂上には大きな石群が点在する。
また、裾野には里の人が「錬伝所」と呼ぶ石組みの址も残っている。その名前から、敵陣が攻めて来た時の見張り所的な役目をしていたと思われる。
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2008年05月06日
杵島城(杵島神社)

須古城の西にその支城である杵島城がある。その起源は明らかでないが、須古城、さらには東の男島城と同じ頃に築かれたと思われる。
平井経治が城主だったが、天正2年(1574年)の戦いで、平井氏が滅亡すると、その後、龍造寺隆信の弟・信周が須古城に入り、須古鍋島家の始祖となった。
今もここに現存する杵島神社は、須古三代邑主・鍋島茂周が始祖を祀って宗社としたものと言われている。
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2008年05月06日
須古城の弾よけ岩
須古城址の高台には、地元の人が「弾よけ岩」と呼ぶ大きな石組もある。また、自然の要害を補強するように「空堀」なども見受けられる。
龍造寺隆信が亡き後、弟・龍造寺信周(須古鍋島家始祖・杵島神社祭神)は、須古城に入城し、南・北外濠を埋め、百町牟田を排水し、溜池を築造して、良田百余町を開拓した。
なお、ここ須古城の支城として西に「杵島城」、東に「男島城」(小島)があり、強固な布陣が敷かれていた。
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2008年05月06日
◆須古城のお堀
平井経治の居城である須古城は、東を城濠で守り、北共に百町牟田まで延長して、周囲をかこんだ。
さらに大手口から搦手に通ずる城郭には、一間の土堤を巡らし、尚南には二重濠になった枳殻土手を築いて防備をかためた。
現在、この地には、堀の名残りも見受けられ、また須古小学校の校門の周囲の塀は、古城の石垣を積み上げたものと思われる。