2008年06月15日
勢福寺城址・その4 「城原衆」
「種福寺」の境内に執行 種兼・「城原衆」を記した碑があります。執行 種兼は、肥前国の武将で初め少弐氏に仕え、享禄3年(1530年)「田手畷の戦い」で活躍しました。その後、勢福寺城主・江上武種に仕えるようになります。
元亀元年(1570年)、「今山の戦い」では、江上武種に属して龍造寺氏と戦っています。それ以降、龍造寺氏の攻勢が強まり、鍋島直茂を総大将とした征討軍が勢福寺城に攻め寄せてきましたが、種兼は旗下の「城原衆」を率いて龍造寺軍の撃退します。
しかしその後、江上武種が龍造寺隆信の猛攻に屈し、隆信の息子・家種を養子に迎えると家種に仕えます。その後、龍造寺軍では新参ながらも、戦功多く彼ら「城原衆」は精強で知られる存在となります。
天正12年(1584年)、「沖田畷の戦い」では家種軍に属して出陣しており、龍造寺隆信が討たれた混乱の中で、種兼以下、嫡男種直、二男種国、三男信直と「城原衆」の多くが討ち死にします。その数、55名と云われています。その後子孫は、佐賀藩では着座として重臣の地位を占めるようになりました。
Posted by 吉松 at 16:38 | Comments(0) | 城址・古戦場・台場巡り1
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