2008年05月24日
伊勢神社
伊勢神社は、天文11年(1542)伊勢神宮から神埼の田手に分霊を勧請したのが始まりで、永禄8年(1565) に鍋島町蛎久へ遷座された後、天正19年(1591)に佐賀城下町の建設に伴い、鍋島直茂によって現在地へ遷座された。
鳥居は石造の肥前鳥居で、慶長12年(1607)の刻銘があり、市の重要文化財に指定されている。
2008年05月18日
2008年03月25日
2008年03月24日
2008年03月24日
2008年03月23日
2008年03月23日
2008年03月22日
2008年03月22日
2008年03月21日
2008年03月21日
義祭同盟連名帳・その2

連名帳は、昭和初期に活字化され、その冊子が本宮に現存しているが、『楠公義祭同盟』(福岡博氏監修・大園隆二郎氏校補)では、それを底本に総校訂し、これまでにない全丁写真付の翻刻を試みて、参加者全員の人名を明確にした。
なお、大園隆二郎著『大隈重信』(西日本新聞社、平成17年)には、嘉永3年から安政6年(1859。年月日不詳の一丁を含む。
筆跡ならびに同盟参加者の諸経歴から安政六年と推定)までの「義祭同盟連名帳の名書一覧」が付載されている。写真は連名帳収納木箱と嘉永3年・安政5年の連名帳。現在、木箱の墨書の筆者は不明である。
2008年03月20日
義祭同盟連名帳・その1

嘉永3年(1850)から明治13年(1880)まで結成されていた義祭同盟の参加名簿。年毎の楠公祭の参列者が一覧できる。
連名帳は元来、綴られておらず、奉書折紙の様式で一枚一枚木箱に収めて、楠神社本殿に木箱ごと奉納されていたが、昭和2年(1927)2月、佐賀楠公会が連名折紙を合帳し、「義祭仝盟連名帖」と名づけた。
2008年03月20日
楠公神社・本殿左扉

平成11年(1999)には、枝吉神陽ならびに佐賀の維新の志士等の功績を称え、義祭同盟結成百五十年記念顕彰碑建立期成会を発足し、翌12年(2000)「義祭同盟之碑」を境内に建立し、五月の楠公祭当日に除幕式を執り行った。
同18年(2006)は、安政三年に梅林庵から本宮へ楠公父子御像が移り、楠神社の創立から百五十年を奉祝し、楠神社御遷座百五十年祭を執行した。
平成の楠神社の二大事業を記念して同15年『楠公義祭同盟』を発行し、同18年には『枝吉神陽先生遺稿』(出門堂)の編集を行った。
なお楠公祭は現在、毎年五月第三日曜日に厳かに執り行われ、楠公に関する社頭講話を神事終了後に実施している。
(以上、江藤慶宣氏記述)
2008年03月20日
楠木神社・本殿右扉

その後昭和3年(1928)、龍造寺八幡宮の境内拡張により、楠神社を現在地の八幡宮西隣に移して新たに拝殿を造営、昭和7年(1932)に完成し、昭和10年(1935)佐賀楠公会により大楠公六百年祭が執行された。
現在の社殿は、昭和49年(1974)から60年(1985)の間に、修改築・整備したものである。昭和59年(1932)には奉賛会を設立し、翌60年、大楠公六百五十年祭を執行した。
2008年03月20日
楠公父子像

楠公父子御尊像を祀った本地堂は、明治維新の後、佐賀神道事務分局預かりとなり、義祭同盟も毎年ではないが明治13年(1880)まで続いた。
本地堂の老朽化により、明治18年(1885)、大楠公550年祭にともない、楠神社社殿の再建造営が計画されたが果たせず、明治36年(1903)に漸く、佐賀工業専門学校(現県立佐賀工業高等学校)第一期生によって、本殿の造営に至った。
拝殿は当時、陸軍大演習御巡察のため明治天皇の名代で来佐の小松宮彰仁親王行幸時の佐賀停車場御休憩所跡を移して修築した。楠神社の例祭も5月25日大楠公祭、2月12日小楠公祭と定められた。
2008年03月19日
義祭同盟

天和2年(1682)信溪没後、その次男元久が祭式を嗣いだが、三代藩主鍋島綱茂の代に浪人となり、その後祭式は途絶、天明3年(1783)永明寺廃寺の後、楠公父子御尊像は高伝寺に移された。
文化13年(1816)、大塚長徹・嘉村穏蔵が、御尊像を高伝寺の楼門で発見した際、有職故実家の山領主馬(利昌)に調査を依頼し、更に小出光豊に命じて修復させ、本庄梅林庵(現在の佐賀市本庄町梅林寺)に安置した。高伝寺長寛和尚のもとに開眼式を厳修し、以降梅林庵にて毎年楠公祭を執行するに至る。
嘉永3年(1850)藩内の古社寺・古文書等を調査していた枝吉神陽・相良宗蔵が、偶然梅林庵の御尊像を拝見し、楠公父子の尊皇忠義の精神を行動の規範とすべく志を立て、神陽自ら主唱者となって楠公義祭同盟を結成、深江信渓の裔孫種禄を祭主に楠公祭を執行した。
嘉永6年(1853)の義祭同盟には、佐賀藩の家老白石鍋島家当主直暠(河内)や執政須古鍋島家当主茂真(安房)が参加、その時に神陽は、茂真に相談して、御尊像を龍造寺八幡宮境内に移祀することを計画した。のち藩主鍋島直正の内命を奉じて、安政2年(1856)に鍋島茂真・枝吉神陽等が、梅林庵から龍造寺八幡宮に楠公父子像を移し、同3年(1857)、八幡宮の本地堂を神殿にして御尊像を遷座、神事を執行した。
同4年(1857)、深江種禄が京都吉田家より玉串免許を取得して神職の資格を得、同5年(1858)には、神式による「楠社御祭」を盛大に執行した。島義勇・副島種臣・江藤新平・大木喬任・大隈重信等、佐賀の七賢人と称えられた郷土の誇る明治維新の功臣等は、悉くこの義祭同盟に参加した(述べ約650名)。
2008年03月19日
楠神社本殿

楠神社の創立は、幕末の安政3年(1856年)である。
その由緒は江戸時代初期、二代藩主鍋島光茂の代に佐賀藩士深江信溪、楠公への景仰篤かった。
寛文3年(1663年)大木英鐵とともに、京都の仏師法橋宗而に依頼して、楠公父子の木像を造らせ、北原永明寺(現在の佐賀郡大和町)に小堂を建立してこれを祀り、祭典を執行したのに始まる。
2008年02月26日
2008年02月25日
稲佐神社・本殿


稲佐神社は、大同2年(807年)創祀とも言われますが、正確な御鎮座の年代は不明です。
五十猛神(イソタケル)を祀る本殿は、享保6年(1721年)の建立です。
五十猛神は、日本神話に登場する神で(イタケル)とも読まれます。日本書紀のみに登場しますが、古事記に登場する大屋毘古神(オホヤビコ)と同一神とさます。
2008年02月25日
2008年02月24日
2008年02月22日
龍造寺八幡宮・社紋


龍造寺八幡宮は、十二日足と杏葉二つの紋が社紋になっています。
向かって左を杏葉、右を十二日足にして合わさっています。
八幡宮の神殿の屋根や本殿の扉、拝殿正面の幕などに十二日足と杏葉各の紋を付しています。
2008年02月22日
2008年02月22日
2008年02月21日
松根社


松根社は、第十代藩主鍋島直正公に仕えた古川松根命をお祀りしています。
命は幼い頃から礼儀作法や学問、また書や絵画、和歌、雅楽の才能に優れておられ、その非凡な才能にあやかろうと多くの参拝者の崇敬を集めています。