2011年07月02日
神代家の御霊屋
神代家は、人皇八代・孝元天皇の孫・武内宿禰を祖として、代々筑後の高良玉垂宮を護ったので、「神に代わる」の意味で「神代」の姓を授かったと伝えられます。
しかし、筑後の蒲池・西牟田らの有力国人たちが割拠し、神代宗元は、彼等の勢力に対抗できず肥前に逃れました。肥前に移住した神代宗元は、久保泉・千布に住し、その子勝利の代に至って肥前国に確固たる勢力を築くようになります。
その「神代家」の累代当主の墓が、ここ、御霊屋に整然と並びます。
2011年04月18日
神代家菩提寺・松陰寺
神代家の菩提寺である松陰寺は、曹洞宗を奉じ、賢渚和尚の開山と伝わります。元は鈴隈南麓・御霊屋下にありましたが、今は西原天神山東にあり、うっそうとした竹林に囲まれています。
松陰大師(鍋島勝茂の娘で、神代五代邑主・常利の公室)・性空院は、先祖菩提のため仏殿を建立し、松陰寺を築造しました。
一番下・写真が、鈴隈南麓・御霊屋に建つ、松陰大師・性空院の墓です。
2011年04月17日
神代氏別邸

神代勝利(1511~1565)は、肥前国を代表する武将の1人で、少弐氏に属し山内(現在の佐賀市北部)に勢力を培い、その武勇と知謀によって一躍肥前の有力武将に成長しました。
少弐氏が龍造寺隆信によって滅ぼされたあとも、隆信に屈せず、互角に戦い晩年に隆信と和睦をし、子孫は鍋島氏の重臣となりました。なお、この別邸が御茶屋かどうか、その場所も含めて目下、調査中です。
2011年04月16日
神代一族の墓稜
御霊屋には、その後、川久保鍋島家となった神代一族のお墓が並びます。中には、驚くほど大きい御影石もあり、その建立にはかなりの努力が必要であったろうと思われます。
かつては、歴代邑主らが自ら先祖を祀っていましたが、今では訪れる人もなくとても静かな墓稜です。
一番上の写真が、神代勝利の墓で、その下・中央が神代長良の墓です。
2011年04月10日
神代勝利誕生の地・千布城
筑後周辺では蒲池・草野・西牟田ら筑後の有力国人たちが割拠し、そのため神代対馬守宗元は、彼等の勢力に対抗できず神代の地を去って肥前に逃れました。
肥前に移住した神代宗元は、上佐賀の千布村に住し、その子・勝利が、ここ「千布城」で誕生します。武勇と知謀に恵まれた勝利は、少弐氏に属して山内に勢力を培い、一躍肥前の有力武将に成長します。
特に龍造寺隆信との戦いでは、山内各地の山岳戦において、先んじて「鉄砲」を使用したと伝えられます。
2008年09月10日
宋源院
神代勝利は、永禄8年(1565)に山内(旧佐賀郡富士町)・畑瀬で55歳で没しました。
墓は、畑瀬城の裏手にあった「宋源院」にありましたが、嘉瀬川ダム建設において畑瀬地区が水没するため、当寺院も移転しました。
現在は、佐賀市大和町東山田の住宅街の中にお堂がひっそりと佇みます。
タグ :神代
2008年08月31日
神代勝利公の墓

神代勝利は、筑後で大宮司であった神代氏の流れを汲む、肥前国・山内の領主です。永正8年(1511年)、肥前国千布城で生まれ、龍造寺氏と肥前国の覇権争いを続けます。龍造寺氏と抗争する近隣の小領主を支援して軍勢を派遣するなど、反龍造寺に徹しました。
三瀬や富士など山間地を本領とする神代氏の軍勢は、山岳戦に長けており、兵数に勝る龍造寺方の軍勢を幾度も撃退します。
しかし最期は、少弐氏が滅亡するに及び、息子・長良の娘と龍造寺隆信の三男・家信の婚儀を約して和睦しました。
永禄8年(1565)、山内(旧佐賀郡富士町)・畑瀬で病の為、55歳で没しました。墓は、畑瀬城の裏手にあった「宋源院」にありましたが、嘉瀬川ダム建設において畑瀬地区が水没するため、高台に移設されました。
今は、工事中のため立入る事ができませんが、ダム完成後は周辺道路と共に整備される予定です。
タグ :神代
2008年06月08日
◆勝宿神社・城山
勝宿神社の東の山は、「城山」と呼ばれます。その名のとおりまさに、城があった山です。
北は山内の三瀬・背振へ通じ、南は川久保を通り平野部にも行け、古代よりの「川久保道」が通る要所です。三方を険しい崖で囲まれた要害として、山城に好適の場所でした。
今は、すぐ側を県道が走りその麓には、小さい祠があります。なお勝宿神社の前の通りを「馬責馬場」と呼び、高速道路の橋名にその名残りを残しています。
2008年06月08日
◆勝宿神社
勝宿神社は、佐賀市久保泉・白鬚神社の東北にあって、神代勝利以下歴代の川久保領主が祀られています。
文政3年(1820年)、神代直寶の父で鍋島家重臣・鍋島彈馬賢在がその祖・神代勝利を祀るために創建しました。社殿は、本殿と拝殿から成り、用材はけやき主体に一部ひのきも使われています。
なお、この社を「新宮さん」と呼ぶのは、すぐ近くに「白鬚神社」があって後に建立したためと云われます。