2008年06月07日

◆也足庵・龍造寺一族の墓





天文14年(1545年)、龍造寺家兼(剛忠)の子である龍造寺家純、家門、そして孫・純家は、馬場頼周の策謀により急襲され、川上・与止日女神社で止む無く自刃しました。

さらに龍造寺周家・家秦・頼純らは、馬場頼周の誘いにより神埼・祇園原にて討たれました。この時の先鋒が、神代勝利でこれ以降、龍造寺氏と神代氏は戦いを繰り返します。

ここ、久保泉上揚・也足庵の寺持は、龍造寺一族の出であったので、周家・家秦・頼純の三将を境内に祀りました。
写真、中央の墓碑が周家、右が家秦、左が家秦です。  


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2008年05月25日

◆高寺の陣太鼓





佐賀市白山町の臨済宗・高寺は、正しくは「瑞石山龍造寺」という名で、かつて龍造寺八幡宮と同じ境内にあった。

本堂は珍しい唐様式が取り入れられ、「十二日足」紋の陣太鼓がある。
  


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2008年05月19日

清心院







古義真言宗・清心院は、龍造寺氏ゆかりの寺院で、龍造寺胤家が大財端城の入城に際し、城の鬼門鎮護のため、永正3年(1506)に建立したものである。

南を流れる十間堀川には、「清心院橋」が架かる。
  


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2008年05月18日

威徳寺・龍造寺 胤和





龍造寺 胤和は、龍造寺氏の第16代当主で第15代当主・龍造寺家和の子として生まれる。父の隠居により早くから家督を継いで第16代当主となったが、早世した。このため、父が再び当主となり、父の死後は弟の胤久が第17代当主となった。

ここ佐賀市・朝日町の威徳院には、かつて龍造寺 胤和の墓があったと伝えられる。現在は、この寺にはないとの事である。

娘の慶誾尼は龍造寺周家の正室となり、龍造寺隆信の生母、鍋島直茂の継母となった。  


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2008年05月12日

鹿子菅原天満宮の杏葉紋





鹿子菅原天満宮は、のちのち鍋島歴代藩主の厚い信仰があった。その本殿には、「鍋島・杏葉紋」が刻まれている。  


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2008年05月12日

◆鹿子菅原天満宮





鹿子菅原天満宮(佐賀市本庄町鹿子)は、龍造寺家純(隆信の祖父)が大宰府天満宮の分霊を祭ったものである。

龍造寺隆信が、追われた水ヶ江城を奪還すべく筑後一ツ木を発ち、乾堂に上陸したのち必勝を祈願したとの言い伝えが残る。  


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2008年05月12日

◆下馬の地蔵様





慶誾寺の西南には、「下馬の地蔵様」が現存する。

ここは、慶誾尼の墓前をお参りするために、龍造寺家と鍋島家一門が訪れた際に、下馬した所と伝えられる。  


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2008年05月12日

◆多久茂文と正室の墓





多久茂文と正室の墓である。

茂文は、佐賀二代藩主・鍋島光茂の三男で、貞亨3年(1686)17歳のとき、多久第四代邑主となった。学問の大切さを知らしめるために、学問所(後の東原庠舎)を設け農民や町人にも門戸を開放し、後に孔子を祀った多久聖廟を創建する。  


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2008年05月12日

多久安順と正室の墓



多久安順と正室の墓。多久一族・墓稜の一番奥に位置する。  
タグ :龍造寺


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2008年05月12日

◆多久安順と一族の墓





慶誾寺境内には、龍造寺長信(隆信・弟)の子で、多久氏と改姓した多久安順とその一族の墓が整然と並ぶ。

なお安順の正室は、鍋島直茂・娘の千鶴である。  
タグ :龍造寺


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2008年05月11日

慶誾尼の墓



慶誾寺の本堂前に、龍造寺隆信・生母である慶誾尼の墓がある。当時としては、92歳というかなりの長寿であった。  
タグ :龍造寺


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2008年05月11日

慶誾寺の水手鉢





慶誾寺には、龍造寺隆信が柳川城攻略の戦利品として持ち帰った「水手鉢」が現存する。  
タグ :龍造寺


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2008年05月11日

慶誾尼・鍋島直茂の義母





慶誾尼は、龍造寺周家の正室となり、龍造寺隆信の生母となるが、後に鍋島清房に嫁して鍋島直茂の義母ともなる。

慶誾尼は、側室を失くし悲嘆していた鍋島清房の元に自ら媒酌を持ちかけたのであるが、この事は当時大いに人々を驚かせたといわれる。  
タグ :龍造寺


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2008年05月11日

慶誾寺





「慶誾寺」(佐賀市本庄町鹿子)は、龍造寺隆信の生母・慶誾尼の菩提寺である。

慶誾尼は、龍造寺宗家16代当主・龍造寺胤和の娘で水ヶ江家・龍造寺周家の正室となり、隆信を産む。  
タグ :龍造寺


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2008年05月06日

龍造寺信周・妻山神社







慶長12年(1607年)、須古初代邑主・龍造寺信周(隆信・弟)が妻山神社を再建したと言われている。立派な社門があり、龍造寺氏の「十二日足」紋が掲げてある。

石造肥前鳥居があり、一の鳥居は明暦5年(1658年)に須古5代邑主・鍋島茂俊が建立し、二の鳥居は50年古く慶長13年(1608年)製で、2代邑主・鍋島信昭の時の建立である。  
タグ :龍造寺


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2008年05月05日

◆木下 昌直・掛軸絵と墓稜







「光圓寺」は、乾亨院と円蔵院の中間に位置し、その門下には龍造寺氏一門としての「十二日足」幕が掲げてある。

木下 昌直・仙叔蔵主の墓は、境内の一番南に建ち、さらには、掛軸絵が現在も保存してある。

  


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2008年05月05日

◆龍造寺四天王・木下 昌直





木下 昌直は、龍造寺氏の家臣で、龍造寺四天王の一人と数えられる。
(資料により、円城寺信胤と入れ替わることがあり、四天王は、5人数えられる)

木下伊予守覚順の長子で、龍造寺隆信の元で殊勲を成し遂げた。その功により、京に上り修行を積むと帰国後、仙叔蔵主と称し、ここ「光圓寺」を開山した。
  


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2008年05月05日

◆龍造寺家純・圓蔵院





「圓蔵院」は、乾亨院の西南に位置し、当初は龍造寺家純(家兼の嫡男)の別館であった。

天文14年(1545年)、龍造寺の一族六人が馬場頼周のため無慚の最後を遂げた時、家兼及び周家の母・慶誾尼はここに家純、周家、純家、頼純父子兄弟の塔婆を建て一寺を建立し菩提し、家純の法号に因んで「圓蔵院」と称した。

お堂の上には「十二日足」の瓦があり、本殿横には「十二日足・杏葉」重ね紋の碑が建つ。  


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2008年05月04日

◆龍造寺胤久・賀昌院





龍造寺胤久の内室は、初め第16代当主・龍造寺胤和の室であったが、胤和が早世したために胤久に嫁した。

弘治元年(1555年)、内室が亡くなると法号に因んで「賀昌院」が建立された。はじめ城内にあったが、後にここ精町に移された。  


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2008年05月03日

◆龍造寺胤久・泰長院





龍造寺胤久は、龍造寺宗家・第17代当主である。第15代当主・龍造寺家和の子・胤和が家督を継ぐが、父より先立ったために弟の胤久が宗家を継ぐ事になった。

天文8年(1539年)、胤久が亡くなると菩提寺としてここ泰長院に葬られた。  


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2008年05月03日

◆龍造寺家兼・万部島







永正2年(1503年)、龍造寺家兼は、万部島にて弟の水上山万寿寺和尚・天亨を導師として大乗妙典一万部を読経させた。
この地は、水ヶ江城の鬼門に当たり、領内の僧三千人余を集め読誦により国家安泰、万民安楽の祈願とした。

佐賀藩になってからも家兼の故事にちなみ法華経一万部の読経は続き、この地は霊場とされ佐賀藩代々の藩主により記念の石塔が建立された。そのため周囲は池がめぐらされ、森源の地としてみだりに衆人の出入りが禁じられた。

  


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2008年05月03日

◆龍造寺康家・慶雲院





「慶雲院」は、龍造寺宗家・第14代当主・龍造寺康家と悦窓夫人の菩提寺として龍造寺家兼が建立した。場所は、中館・乾亨院の東にあたる。

家兼夫妻も遺言により両親の墓に面して葬られたが、康家の墓は明治4年(1871年)、鍋島家の菩提寺・高伝寺に移された。  


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2008年05月02日

◆龍造寺家兼・乾亨院





龍造寺家兼は、水ヶ江城城主で号は剛忠といい、龍造寺隆信の曾祖父にあたる。

龍造寺宗家第13代当主・龍造寺康家の五男にあたり、分家である水ヶ江龍造寺家を興した。城内は、三十町ほどあり、東館(本館)・中館・西館に分かれ、本館はこの乾亨院の現在の場所にあった。

永正4年(1507年)、家兼はその弟・天亨を請じて乾亨院を開山した。また家兼は、龍造寺氏の飛躍を遂げる基礎を固め、一族の「中興の祖」と言われるようになった。  


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2008年04月18日

◆瑞石山龍造寺







白山町の西端に、臨済宗の高寺があります。

正しくは、「瑞石山龍造寺」という名で、かつて龍造寺八幡宮と同じ境内にありました。本堂は珍しい唐様式が取り入れられ、天井にはみごとな龍が描かれています。  


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2008年04月18日

◆龍造寺四天王・江里口 信常



江里口 信常は、龍造寺氏の家臣で龍造寺四天王の一人。江里山の麓に居住していたため、代々江里口氏を称している。

沖田畷の戦いで龍造寺隆信が戦死すると単身、味方と偽って敵陣に乗り込み、敵の総大将・島津家久の首を狙ったが、家久の左足を傷つけるに終わって暗殺は失敗。その場で敵勢に討たれた。

家久をして「無双の剛の者」と賞賛され、一族がいれば召抱えたいと言わしめた。

  


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2008年04月17日

◆龍造寺四天王・円城寺信胤



                           主君・龍造寺隆信


円城寺信胤は、龍造寺家臣で龍造寺四天王の1人といわれる。

沖田畷の戦いで主君・隆信戦死の報告を受けると、隆信に似せた出で立ちをしたのち、敵陣に斬り込んで戦死した。  


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2008年04月17日

◆龍造寺四天王・成松 信勝



成松信勝は、龍造寺氏の家臣で武勇に優れていたため、龍造寺四天王のひとりとなった。

元亀元年(1570年)の「今山の陣」では、大友軍に夜襲をかけ、敵の総大将・大友親貞を討ち取るという大功を挙げている。この「今山の陣」は、龍造寺隆信と大友宗麟の決戦で「肥前分け目の戦い」と言われた。

天正12年(1584年)、沖田畷の戦いで龍造寺隆信を守りながら戦死した。

  


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2008年04月16日

◆龍造寺四天王・百武志摩守





百武志摩守は、龍造寺四天王のひとりで、龍造寺隆信から百人並みの武勇を有すると賞され、百武姓を賜る。
★「龍造寺四天王」―成松信勝、江里口信常、百武志摩守、円城寺信胤。

また龍造寺配下の武勇に優れたる四人を「両弾二島」と呼び賞賛した。その中にも百武志摩守との名前がある。
★「両弾二島」―大村弾正・犬塚弾正・百武志摩守・上瀧志摩守。

百武志摩守は、龍造寺隆信が筑後国蒲池(現福岡県柳川市)の蒲池鎮漣を謀殺し、その一族を冷酷に皆殺しにしたことには同意出来ず、柳川の戦いには、ついに最後まで出陣しなかった。

しかし、最期は天正12年(1584年)、沖田畷の戦いにて主君・龍造寺隆信と共に討死した。  


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2008年04月16日

◆龍造寺高房・天祐寺





天祐寺は、龍造寺隆信公嫡孫・龍造寺高房公の菩提の為に、鍋島直茂公が元和元年(1615年)建立した寺である。  


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2008年04月15日

◆龍造寺高房





龍造寺高房は、龍造寺政家の嫡男。天正14年(1586年)生。龍造寺隆信の孫にあたり、慶長12年(1607年)に没す。

父・政家が病弱だったため、わずか5歳で家督を相続した。しかし、肥前佐賀藩の国政は豊臣秀吉の承認の下、重臣の鍋島直茂公とその子・勝茂に実質的に握られる。

天祐寺は、鍋島直茂公が龍造寺高房の為に、元和元年(1615年)に建立した菩提寺である。  


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