2008年02月06日

武富 時敏





安政2年(1855)、佐賀藩士武富良橘の長男として生まれました。
武富一族の始祖・明人十三官より十世にあたり、明治14年、九州改進党を結成し16年県会議員に当選します。

同20年、佐賀郡長となり郡の財政を改革、23年国会議員となります。
内閣書記官長を経て、大正3年大隈重信内閣の時、大蔵、逓信両大臣を歴任しました。

墓は、武富廉斎と同じく佐賀市・呉服元町の称念寺にあります。  


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2008年02月05日

佐藤尚武著「回顧八十年」



                          <北堀端時代の勧興小学校>

佐藤尚武著「回顧八十年」より

『明治21年、私は父が佐賀県警部長として佐賀へ赴任したのに伴い、勧興尋常小学校へ入学した。
 幼い子供で初めて佐賀の学校に入って私はたぶんに佐賀人の気風に染まったことと思う。
 全校生徒で洋服を着ていたのは私と兄の二人きりであったがために非常に人々の注意を引いた。』  


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2008年02月05日

勧功興学



佐藤尚武は、昭和26年に母校・勧興小学校を訪問し、この「勧功興学」の書を残します。

現在、この書は勧興小学校の校長室に掲げてあります。
  


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2008年02月05日

国際連盟脱退



昭和8年2月24日、国際連盟特別総会においてリットン報告書が採決され、賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム=タイ)の賛成多数で可決されました。

可決直後、席上で松岡洋右日本全権は「もはや日本政府は連盟と協力する努力の限界に達した」と表明し、その場を退席します。

佐藤尚武はこの時、フランス特命全権大使の任にあり、松岡洋右と長岡春一駐フランス大使と行動を共にしました。  


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2008年02月05日

佐藤尚武兄弟



明治20年、佐藤尚武は兄と共に勧興小学校に入学します。

当時の勧興小学校は、地元佐賀ではまだ武士の子供しか入学できませんでしたが、
佐藤尚武らは、津軽藩士の子である為に入学できたものと思われます。
  


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2008年02月05日

佐藤尚武の父・田中坤六



佐藤尚武の父・田中坤六は、青森県弘前出身の津軽藩士でした。

警察官であった父が佐賀県警部長として佐賀へ赴任したのに伴い、佐藤尚武も佐賀へ移住しました。
  


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2008年02月05日

佐賀の英傑



佐藤 尚武は、日本の外交官・政治家で、勧興小学校を卒業しています。

林銑十郎内閣で外務大臣、戦後には参議院議長等を歴任、第二次世界大戦末期のソ連による対日宣戦布告当時の駐ソビエト連邦大使でした。

1933年、国際連盟でのリットン調査団による報告書の採択の際は、松岡洋右主席代表や長岡春一駐フランス大使とともに抗議の退場をしました。

1931年勲一等瑞宝章。1934年旭日大綬章、没後旭日桐花大綬章を追贈され、まさに佐賀の英傑です。
  


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2008年02月05日

相良 知安







日本の医学をドイツ式に整え、現代日本医学の基礎を確立した功績者です。

佐賀藩医の子として生まれ、長崎・精得館などに進み、帰国後、佐賀藩主・鍋島直正の侍医となりました。
明治2年、鍋島直正に従い上京し、医学制度改革を命じられ、その後、従来の蘭英医学を廃し、日本はドイツ医学に依ることを主張しその必要制を説きました。

明治5年、第一大学医学校長、文部省医務局長などを歴任し、のちに東京医科大学を創設、医学体系をドイツ式に整えました。

墓は、佐賀市寺町の城雲寺にあります。
  


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2008年02月05日

郷土の人物



ここでは、郷土・佐賀の偉人達を紹介します。
  


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