2011年07月01日
慈音院と婦人坐像

川久保・六代邑主であった神代直長の娘、成姫は、佐賀藩二代藩主、鍋島光茂の養女となり、白石の邑主、鍋島直弘の子、鍋島直氏に嫁ぎます。しかし、難産のために18歳で亡くなります。
このため、直長は娘のめいふくを祈って慈音院を建立し、姫の像を刻んで本尊観世音像の胎内に納めました。製作年代は延宝4年(1676年)頃と推定されます。そしてこの事は、その後忘れらてしまいました。
ところが明治年間になり、裏山で山火事が起こり、本尊を避難させた時、胎内で物音がしてこの像が発見されます。以来、この像は、本尊とともに安産の仏として信仰されています。成姫の墓は、本堂のすぐ右隣・別堂で立派な十一面千手観音が祠らています。
Posted by 吉松 at 23:18 | Comments(0) | 神社2
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