2008年06月07日
◆千布城址・その1
龍造寺隆信は、永禄5年(1562年)に神代勝利と和議を交わしました。そして、隆信の三男・善次郎(のちの後藤家信)と勝利の子・長良の娘・初菊との婚約をさせ、両氏の和睦を図りました。
さらに永禄8年(1565年)、神代長良の男子と娘が病死すると龍造寺隆信は、家臣・納富信景と龍造寺信明を千布の土生砦(千布城)に御悔みの誓詞を届けさせました。
ところが、神代長良が油断したその日の夜、納富信景を先陣として龍造寺勢が土生砦に攻め入ります。長良らは、自刃しようとしますが、妻室が止めに入り北の小門から逃れます。これを「千布崩れ」といいます。
Posted by 吉松 at 23:24 | Comments(2) | 城址・古戦場・台場巡り2
この記事へのコメント
確かに、龍造寺家信は後藤貴明の後を継ぎますね。歴史に、もしもはありませんが、もし神代長良の娘が病死していなければ、家信は神代家を継いでいた筈です。
すると、龍造寺氏と神代氏の戦いは違った展開になっていたかも知れません。円応寺のお霊屋もいつか訪問したいと思います。
すると、龍造寺氏と神代氏の戦いは違った展開になっていたかも知れません。円応寺のお霊屋もいつか訪問したいと思います。
Posted by 吉松 潤二
at 2008年06月08日 21:23

三男 家信はのちに・・武雄 後藤家の養子になり後藤貴明の後を継ぐのですが・・・以前に婚約の話があってたのですね。
この頃・・武雄歴史研究会の方に家信の墓を教えてもらい・・改めて 円応寺のお霊屋にいったのですが・・雑草が生い茂り・・板塀も破損し・・歴史上の人物保存が・・・こんなのではと、とても残念に思いました。
勿論 寺社の関係者の方達で草刈や整備をされてはいますが・・やはり限られますので・・市役所などによっていくらかでも整備保存がなされないだろうかと思います。
この頃・・武雄歴史研究会の方に家信の墓を教えてもらい・・改めて 円応寺のお霊屋にいったのですが・・雑草が生い茂り・・板塀も破損し・・歴史上の人物保存が・・・こんなのではと、とても残念に思いました。
勿論 寺社の関係者の方達で草刈や整備をされてはいますが・・やはり限られますので・・市役所などによっていくらかでも整備保存がなされないだろうかと思います。
Posted by タケタク at 2008年06月08日 01:09
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