2008年06月23日
鍋島茂治・館中さん その2
鍋島茂治は、龍造寺家臣団として島原や肥後に出陣しました。後の豊臣秀吉の朝鮮出兵に際しては、兄・茂正と共に鍋島勢の中軸として奮戦しました。
特に、加藤清正勢が苦境に陥った時は、清正を助けて功績を挙げました。この事が縁で、清正からの懇望により、茂治の長女を清正の家老に嫁入りする約束ができました。ところが帰陣後、鍋島勝茂の代となると他国との縁組は御法度となりましたが、肥後方からは使者が来て約束通り、長女を嫁として連れて行かれました。
おどろいた佐賀藩では、成富茂安が肥後に使わされ長女は帰国させられました。そして、茂治は、佐賀藩の法度を破ったとして切腹しました。嘆いた長女は、その後を追い自害しました。さらには、主の切腹を聞き伝えその家来・18人も追い腹しました。
その33回忌の時に、この供養等が建てられ、久間の人々はかつての城主を末永く祀りました。今でも地域の人々は、親しみを込めて「館中さん」(たっちゅうさん)と呼びます。
タグ :鍋島
2008年06月23日
鍋島茂治・館中さん その1
塩田町下久間・永正寺の北側の小高い丘に「館中さん」(たっちゅうさん)と呼ばれる供養等が建っています。
この碑は、佐賀藩祖・鍋島直茂・兄信房の二男・鍋島茂治を祀るものです。慶長18年(1613年)、鍋島茂治は、時の藩主・鍋島勝茂から藩規にふれた罪で切腹を命じられました。
この鍋島茂治は、天正19年(1591年)からおよそ20年間、久間城主として当地を治めていました。久間城は、久間薩摩守盛種により築城された城で、武雄・後藤貴明の家臣団の砦でもあります。
タグ :鍋島
2008年06月18日
2008年06月18日
2008年06月15日
勢福寺城址・その4 「城原衆」
「種福寺」の境内に執行 種兼・「城原衆」を記した碑があります。執行 種兼は、肥前国の武将で初め少弐氏に仕え、享禄3年(1530年)「田手畷の戦い」で活躍しました。その後、勢福寺城主・江上武種に仕えるようになります。
元亀元年(1570年)、「今山の戦い」では、江上武種に属して龍造寺氏と戦っています。それ以降、龍造寺氏の攻勢が強まり、鍋島直茂を総大将とした征討軍が勢福寺城に攻め寄せてきましたが、種兼は旗下の「城原衆」を率いて龍造寺軍の撃退します。
しかしその後、江上武種が龍造寺隆信の猛攻に屈し、隆信の息子・家種を養子に迎えると家種に仕えます。その後、龍造寺軍では新参ながらも、戦功多く彼ら「城原衆」は精強で知られる存在となります。
天正12年(1584年)、「沖田畷の戦い」では家種軍に属して出陣しており、龍造寺隆信が討たれた混乱の中で、種兼以下、嫡男種直、二男種国、三男信直と「城原衆」の多くが討ち死にします。その数、55名と云われています。その後子孫は、佐賀藩では着座として重臣の地位を占めるようになりました。
2008年06月15日
2008年06月15日
2008年06月15日
勢福寺城址・その1
正平8年(1353年)、九州探題・一色直氏が築城されたとされ、菊池氏、少弐氏、大友氏、大内氏、龍造寺氏と主が代わり、最後は江上氏の居城となりました。。
まさに山城としての景観があり、城山麓付近一帯からは、城下町遺構が見つかっています。
タグ :龍造寺
2008年06月15日
2008年06月15日
2008年06月15日
姉川城址・その1
姉川城は、正平15年(1360) 頃に菊池武安によって築かれました。武安は、肥後菊池氏の一族で仁比山城を本城に姉川城、本告牟田城、横大路城等に支城を築きましたが、少弐頼尚に敗れて後は姉川城を居城として姉川氏を称します。それ以降、少弐氏・龍造寺氏に仕えるようになります。
弘治元年(1555年)、龍造寺隆信が少弐冬尚を討つために勢福寺城を攻めるために、ここ姉川城を本陣としました。
タグ :姉川城
2008年06月08日
◆勝宿神社・城山
勝宿神社の東の山は、「城山」と呼ばれます。その名のとおりまさに、城があった山です。
北は山内の三瀬・背振へ通じ、南は川久保を通り平野部にも行け、古代よりの「川久保道」が通る要所です。三方を険しい崖で囲まれた要害として、山城に好適の場所でした。
今は、すぐ側を県道が走りその麓には、小さい祠があります。なお勝宿神社の前の通りを「馬責馬場」と呼び、高速道路の橋名にその名残りを残しています。
2008年06月08日
◆勝宿神社
勝宿神社は、佐賀市久保泉・白鬚神社の東北にあって、神代勝利以下歴代の川久保領主が祀られています。
文政3年(1820年)、神代直寶の父で鍋島家重臣・鍋島彈馬賢在がその祖・神代勝利を祀るために創建しました。社殿は、本殿と拝殿から成り、用材はけやき主体に一部ひのきも使われています。
なお、この社を「新宮さん」と呼ぶのは、すぐ近くに「白鬚神社」があって後に建立したためと云われます。
2008年06月08日
◆白鬚神社・両部鳥居
白鬚神社・社前の三の鳥居は、木造の「両部鳥居」で、本柱の前後に控え柱が設けられています。本柱と控え柱の間には、貫を通し、補強された古式の鳥居です。別名、「四脚鳥居」とも呼ばれます。
2008年06月08日
◆白鬚神社
川久保・宮分の白鬚神社は、近江(滋賀県)・白鬚大明神の分霊が勧請されています。祭典記録によると、その時期は敏達天皇3年(574年)と云われ、昭和49年には1400年祭が行われました。
毎年の10月18・19日には、稚児田楽が古式豊かな舞楽として行われます。
先述の「八つ溝合戦」では、神代長良、古川新四郎・兄弟らの軍勢が龍造寺勢を討つため、ここに集結しました。
2008年06月08日
◆八つ溝古戦場・その2
神代長良は、上流の白鬚神社に古川新四郎・兄弟らの軍勢を集結させました。そして足軽14、5人を農民に化けさせ八つ溝辺りで待ち構えました。
納富治部大輔信純は、農民と思い、追い立てますが、彼らはオトリとして北へ退きます。信純らがさらに兵を進めた時、三方に潜んでいた神代勢は一斉に襲いかかります。こうしてついに古川新四郎・弟が、信純を討ちました。
今も、ここ八つ溝古戦場には、「龍造寺に欺かれ、その恨を晴らした戦場跡」と記された碑が建っています。
2008年06月08日
◆八つ溝古戦場・その1
「千布崩れ」により筑前に逃れた神代長良は、往還の念で時を過ごしました。やがて、旧領に戻ると三瀬の城を復興し、江上・横岳・姉川・綾部らの将士達と通じ、龍造寺氏の追討を練りました。
永禄9年(1566年)4月から5月にかけて、川久保地区が旱魃に合うと長良は、八つ溝で川を堰き止めました。これにより封邑が枯れてしまった納富信景は、大いに憤り、弟・納富治部大輔信純を堰崩しに遣わせました。
これに対し、神代長良は軍勢を三手に分けて八つ溝で迎え撃ちます。これが「八つ溝合戦」と呼ばれる戦いです。
2008年06月07日
◆千布城址・その2
「千布崩れ」により、土生砦を脱出した神代長良は、家臣・古川新四郎らと共に山越えして筑前まで逃れました。
一方、土生砦では、神代長良を心配して神代左馬助が援軍に来ましたが、その馬具があまりに美しかったために龍造寺勢は、これを長良と間違えました。大将を討ち取ったと思った軍勢は、これを機に城攻めを止め、引き返しました。
現在の、千布城址は、小高い丘をうっそうと樹木が覆い、わずかに土塁のあとが残ります。竹薮の中には、空堀の跡らしき窪地も確認できます。
2008年06月07日
◆千布城址・その1
龍造寺隆信は、永禄5年(1562年)に神代勝利と和議を交わしました。そして、隆信の三男・善次郎(のちの後藤家信)と勝利の子・長良の娘・初菊との婚約をさせ、両氏の和睦を図りました。
さらに永禄8年(1565年)、神代長良の男子と娘が病死すると龍造寺隆信は、家臣・納富信景と龍造寺信明を千布の土生砦(千布城)に御悔みの誓詞を届けさせました。
ところが、神代長良が油断したその日の夜、納富信景を先陣として龍造寺勢が土生砦に攻め入ります。長良らは、自刃しようとしますが、妻室が止めに入り北の小門から逃れます。これを「千布崩れ」といいます。
2008年06月07日
◆也足庵・龍造寺一族の墓
天文14年(1545年)、龍造寺家兼(剛忠)の子である龍造寺家純、家門、そして孫・純家は、馬場頼周の策謀により急襲され、川上・与止日女神社で止む無く自刃しました。
さらに龍造寺周家・家秦・頼純らは、馬場頼周の誘いにより神埼・祇園原にて討たれました。この時の先鋒が、神代勝利でこれ以降、龍造寺氏と神代氏は戦いを繰り返します。
ここ、久保泉上揚・也足庵の寺持は、龍造寺一族の出であったので、周家・家秦・頼純の三将を境内に祀りました。
写真、中央の墓碑が周家、右が家秦、左が家秦です。
2008年06月03日
2008年06月03日
2008年06月03日
◆牛島天満宮
東佐賀町の牛島天満宮は、永正5年(1508)年に再興とあります。通常、神社は南に面しているのですが、ここ牛島天満宮は西に面しています。これは佐賀城の鬼門(北東)の鎮守として、お城の方角を向いているためと云われています。
長い参道が続き、さらに境内の廻りは掘割で囲まれ、朱塗りの太鼓橋が色鮮やかです。
2008年06月02日
◆八戸城址
於保氏の出である八戸宗暘は、「八戸城」に拠って龍造寺氏と対立しましたが、弘治4年(1558年)龍造寺隆信に追われました。さらに、元亀元年(1570年)龍造寺と大友の決戦、「今山の陣」の時は大友陣に内応して戦傷、その後没しました。
八戸宗暘は、山本常朝の曽祖父の縁があるので、「龍雲寺」に山本常朝一族の墓があります。
ここ「龍雲寺」周辺は、館内(たちのうち)の呼称や、城堀(じょうほり)の地名が今も残り、堀割の地形にも当時の姿が偲ばれます。
2008年06月02日
◆高橋
長崎街道の西の入口で本庄江川に大きく架かる橋が、「高橋」です。佐賀藩時代には、東の「構口」と同じく番所がありました。
本庄江の船着場であったので、航行に支障がないように橋桁が高くなっていてその名の通り、「高橋」と呼ばれるようになったと云われています。
2008年06月02日
2008年06月02日
千人塚
長崎街道を更に西へ進み嘉瀬川を渡る頃、傍らにはかつて佐賀藩の刑場がありました。
元禄時代、嘉瀬津・妙福寺19世、日仙上人が刑死者の菩提を弔うため、卒塔婆を建てたと伝えられています。その後、明和3年(1767年)、同寺の日潮上人によって石碑に建て代えられました。現在は、石碑は妙福寺に移され、地蔵様を祀る祠が森林公園の中にあります。
2008年06月01日
鍋島段通・顕彰碑
嘉瀬扇町・苗運寺の境内には、元禄6年(1693年)に「扇町毛氈」を始めた「古賀清右衛門」の墓と、「鍋島段通」顕彰碑がある。
「鍋島段通」は、当時の佐賀藩三代藩主・鍋島綱茂公が、この緞通の精緻で優美な趣を愛し、藩内での生産を奨励し、扶持米をあたえて御用品とした。さらに、一般への販売を禁じ、佐賀藩から幕府や親藩大名への贈り物として用いられ、以来明治20年頃まで製造された。
2008年06月01日
苗運寺
佐賀市扇町の苗運寺は、永禄元年(1558年)開基の曹洞宗の寺である。境内には、「扇町毛氈」を創作した「古賀清右衛門」の墓と顕彰碑がある。
なお、明治13年から明治22年までの間、苗運寺境内には「栄昇小学校」があった。
2008年05月28日
初代・肥前国忠吉
佐賀市伊勢町・真覚寺には、「初代・肥前国忠吉」の墓がある。
初代忠吉は、元亀3年(1572年)高木村長瀬に生まれ、橋本新左衛門と称した。慶長元年(1596年)上京して、名工・埋忠明寿の門下となり刀工としての技を磨き、帰国後、現・長瀬町に居を移し、佐賀藩の抱刀工となった。
境内には、日本刀のさい焼きに使用した「水舟」や、「とぎ石」なども現存する。