2009年01月15日

法勝寺・俊寛僧都の墓

法勝寺・俊寛僧都の墓

法勝寺・俊寛僧都の墓

俊寛は、平安時代後期の真言宗の僧で俊寛僧都(しゅんかんそうず)などとも呼ばれます。

後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にありましたが、治承元年(1177)、平氏打倒の陰謀に加わって鹿ヶ谷の俊寛の山荘で密議が行われました。しかし、密告により陰謀は発覚し、俊寛は藤原成経・平康頼と共に鬼界ヶ島(薩摩国)へ配流されました。(鹿ケ谷の陰謀)

そして治承3年(1179)、死を決意して食を断ち自害しました。37歳の若さでした。同じ法勝寺の名で俊寛の墓がありましたが、現在は撤去され碑があるのみです。口伝として同様に、俊寛の墓は、西日本から各地に十数ヶ所所在しているとの事です。



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Posted by 吉松 at 19:57 | Comments(0) | 佐賀宿
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